すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

足掛かりは後ろにある

2014年07月21日 | 雑記帳
 【足掛かり】(あしがかり)

 ①高い所へ昇るとき、足をふみかける所。足場。
 ②事に着手するいとぐち。拠点。



 通知表の、いわゆる所見欄「学校から」と担任が書く文章の中に久しぶりに、この言葉を見た気がした。

 ごく普通の言葉なのに…。

 個人的な印象だが、この頃あまり使われないのではないか。

 勝手にどうして使われなくなったのか、考えてみる。

 「手掛かり」は今でもごく自然に使われている気がする。
 といっても、何かの事件、現実もそうだが小説やドラマの中が多いだろうか。

 しかし「足掛かり」はどうだ。
 やはり、あまり聞かない。

 何かを足掛かりに上に行くという行動パターンが少なくなったのか。
 それとも別の言葉に置き換えられているのか。
 「きっかけ」とか「いとぐち」とか…そんな感じがする。


 さて、辞書では同義的にとらえられているが、厳密に考えると「手掛かり」と「足掛かり」は異なるはずだ。

 「手でつかむ」と「足をかける」の違いだ。

 どちらも「体を支える動き」である。
 その姿勢を想像してみると、やはり「手」が優先のようだ。
 何か障害がある場合(壁、梯子…)の昇っていくという動作を思い起こすと、やはり「手」が主で「足」が従、二つの要素が欠かせないけれども、確かに役割は持っている。

 「手」は方向性、「足」は推進力と仮定してみよう。

 見えるものをつかみ、かつてつかんだものにかける、そうやって昇っていく。

 これは、大変な警句ではないか。

 手掛かりは前にあり,足掛かりは後ろにある。
 足掛かりは、今までの経過の中にきっとある。

 書き出す前はこんな結びになるとは考えていなかったなあ。

だまされる身の責任

2014年07月20日 | 読書
 「2014読了」70冊目 ★★★

 『いのちの食べ方』(森達也  角川文庫)


 森達也の書くことには注目している。
 同年代ということもあるし、目のつけどころに共感する部分が多い。世間的にはどうなんだろう、と少し頭をよぎるが…。

 そんなことはともかく、この本は面白かった。

 「昨日の夕食は何だった?」
 という問いかけから始まる。
 第一章は「もしもお肉がなかったら?」と題され、肉の普及とその歴史が語られている。
 改めて、肉に依存している現在の生活、それは食だけでなくいろいろな分野に入り込んでいることに「へえぇぇぇ」と思う。

 そして第二章に登場する「屠場」。

 そういえば以前は「場」と言っていたはずだが、いつの間にか「殺」が抜けている。
 この場所と差別の関わりについてはある程度知っていたが、屠場の実際の仕事の様子については、正直想像してもみなかった。

 それはきっと多くの人も同様ではないだろうか。
 文章でそれを知ったことだけでも貴重だし、映像では強烈すぎるかもしれない。

 そこから差別問題についての記述が続く。

 根深く、安易に触れられないように思うが、そんなふうな気持ちを抱くこと自体、差別意識が入り込んでいることは自覚せねばならない。

 差別の問題から、戦争責任への話題へ移り、引用されている伊丹万作の「だまされることの責任」という文章には、はっとさせられる。

 わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。(中略)つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだと思う。


 かの戦争時の新聞報道等は多くの人に批判、非難されるが、そして当然責任は大きいが、なぜそうなったのかを知らなければ、またぞろ同じ道を歩む可能性が高くなるように思う。

 今、私たちが置かれている立場も似たようなものだ。
 主義主張の違いは簡単にうまるものではない。
 ただ自説を通すために、いろいろな画策がなされて、ずるずると地盤沈下を待つようなやり方には、納得がいかない。生理的に合わない。

 この時代に対する身の置き方としては、もはや一般的になった「スピード化」と反対の思考をすることが大切だと考えるようになってきた。

 スピード化の陰で、きっと大事なものを置き去っている。
 それも多くの場合、後から悔いるという形で思い出し、どうにもならなくなっている現実だけが残っている。

ありがたい教えの本を少しずつ

2014年07月19日 | 読書
 こういう文体に憧れてしまう。

 『私の作文教育』(宇佐美寛 さくら社)を少しずつ読み始めている。

 そして、冒頭に書いたとおりの気持ちを持つ。

 しかし、その一文は検討されなければならない。
 それが、私にとって、この本を読んだ価値と言えるからである。


 こういう文体に憧れてしまう。

 何気なく書いてしまったこの文章に、自分の不足な部分がぎっしりと詰まっている。

 「こういう」とは、何を示しているか。少なくとも引用があるべきであり、「宇佐美寛」という名前から文章をイメージできる読み手を期待したり、漠然とした印象だけでよいと端折ったりする心理があるのではないか。

 「文体」とは、表現上の特色を指しているのか。また文章の様式のことをいっているのか。定かではない。

 「憧れる」ではなく「憧れてしまう」と書いた理由があるのか。
 それは「憧れられないのに」とか「憧れてはいけないのに」、もしくは「憧れても仕方がないのに」というニュアンスを含んでいる。
 しかし、なぜそんな心理を湧いたことを含めたのだろう。


 と、「作文教育」らしく、というか宇佐美先生の真似のように書いてみました。

 しかし、全然近づけない気がしています。
 だから「憧れ」と書いたのでしょう。

 そういえば、以前「痛い」と思った記憶のある、次の文章がまた書かれてありました。

 ガはきたない。(チョウはきれい。)ガを追い出そう。

 接続助詞としての「が」を連発する癖のある自分は、ずきっとくる教えでした。

 しかし、しょっちゅうその癖が出ているところを見ると、肝心なことをぼやけさせたいという気弱な心理が透けてみえるようです。

 「蛾の色彩がぼんやりして、さえない」という「ありがたい教え」を、まずはこの本から頂きました。

今さらの温故知新

2014年07月18日 | 読書
 「2014読了」69冊目 ★★

 『論語』(加地伸行  角川ソフィア文庫)


 苦手意識があるけれど、これならいいかと思い手に取った。
 なにしろ「ビギナーズ・クラシックス 中国の古典」である。程よい難しさであった。

 第一部は「孔子の生涯」、二部が「『論語』のことば」となっていて、いずれもどこかで習ってはきているのだろうけど、ほとんど忘却の彼方へ去ったことだ。
 それゆえ孔子の生涯は新鮮に思え、起伏ある人生だったからこそ、後生に伝えられていくというある面の真実を知った気がする。


 最も有名であろう、論語の最初に置かれた文章。

 子曰く、学びて時に之を習う。亦悦ばしからずや。朋遠方より来たるあり。亦楽しからずや。

 この次にこう書かれてある。

 人知らずして慍らず。亦君子ならずやと。

 (人が私の才能を知らないとしても、不満を抱かない。それが教養人というものではないか)


 前段ほど広く知られていないこの部分こそ、孔子が抱えた不遇と、その時期の充実がもたらした悟りをまさしく表していると感じる。


 通読してみると、と言っても著者の編集した流れにそってということだが、結構、雑多な感じがするし、世俗的な箇所も見え隠れする。
 弟子たちとともに、そういう時間を過ごした、いわば「チーム孔子」の姿がこの論語全体と言えるのかもしれない。


 忘れていけないと思うのは、そしてたぶん忘れないだろうと思うのは、この著名な文章のことである。

 子曰く、故きを温めて新しきを知る。

 これも、それに続く部分が肝心なのである。

 以て師為る可し。(もって し たる べし)

 意訳は「そういう人こそ人々の師となる資格がある」。

 「温故知新」は、師たる条件を述べていたのか。
 おのが不明を恥じる。

20年前,この部屋で…

2014年07月17日 | 雑記帳

 朝から各学年より提出された通知表をチェックしていて,少し休憩をしたときに「ああ,そうだった」と思い出したことがあった。ちょうど20年前,この学校に赴任した,ちょうどこの時期だ。学級担任なしの教務主任という役目を仰せつかっていた。T校長先生が「ちょっとこっちへ…」と校長室から呼んでいる。


 そこには,テーブルの上に重ねられた通知表が15学級分あった。T校長は「勉強だと思って,この所見をチェックしてみたら」と言われる。当然,ご自分も点検し付箋を貼っているわけだが,それらを再度見直してみろ,ということらしい。それはちょっと…と思ったが,尻込みもいやだし,興味もあって取りかかる。


 当時は,当然「手書き」。そして学期ごとに貼り付ける形式であり,すでに全部が貼り付けて,つまり完成形で出してあった。従って,訂正が入ると修正液を使ってそのうえから書きこむのが普通だった。作業を始めて驚いたのは,T校長の貼り付ける付箋の多さ。もちろん学級によって違いはあるが,かなり細かい。


 そこから私がしたことは,文章チェックと見せかけて「どうでもいいような付箋」外しである。あまりに担任の先生方がかわいそうでしょ,というヒューマンな思い(笑)で,こっそりと取り外していったのである。よくそんなこと出来たものだなと我ながら驚く。点検システムに手をつける発想がまだなかったのだ。


 ごめんなさい,すいませんと,今からでもT校長に謝りたい気持ちでいっぱいだ。しかしそれは叶わない。実はそれから半月ほど後に大変な出来事が起こった。顛末は4月4日に書いた通りだ。今,立場が変わり,もちろん他の誰も呼び出さず一人で見ている。ちょっとしんどいが贖罪!のつもりで,また見始める。

究極の健康オタク本

2014年07月16日 | 読書
 「2014読了」68冊目 ★★

 『医者に殺されない47の心得』(近藤 誠 アスコム)


 書店で並べられている背表紙をみたとき、何度か書評等で紹介があったことを思い出した。
 その中身は覚えていないが、ずいぶんと売れているらしい。
 帯には「おかげさまで、100万部突破!!」とある。

 健康法オタクを自称する者にとっては、もしかしたら究極の本になるかもしれない。

 医者自身が医院や病院へ行くな、と言う。
 こういう構図は、どの職業にもあるのかもしれない。
 内実を知る者が告発気味に、その実態、現状を知らせ、その利用者に警戒を呼び掛ける形だ。

 勘ぐれば、売名行為ではないか、話題づくりの手法ではないか、とも受け取ることができる。

 しかし、事は「生き死に」の問題である。そんな単純な動機から出発した理論が世間の目を欺くことができるのだろうか。

 その判断はともかく、100万部以上売れていることは、とにかく医者不信・病院不信を多少でも抱えている人が多いということか。

 私自身も、主たる購読層であろう50代以上、そして月に一度定期通院している身だが、そんなに医者不信に陥っているわけではない。

 ただ、この本で多くのページ数が割かれているガン治療の現実を見聞きして感じることはある。
 体を何本もの管につながれたままで、最期を迎えることは、誰しもが遠ざけたいと思っていることだろう。
 なぜ、そうなってしまうのか。そこにはやはり構造的な問題があることに違いない。
 ガンのこと、薬のこと、診断にかかわること…著者の書いている医学に関わる知識は、もしかしたらその業種では常識であることなのかもしれない(口に出す人が少ないだけで)。
 しかし、それが対患者への言葉となったときには、大きな開きが出てくるようだ。

 「風邪を治す薬はない」

 何度となく聞いた。では、その後に医者が続ける言葉は…。
 そして、その判断を受け止める自分は、どう答えたか。

 これは、身体観が問われている。
 それは生きるための価値観の大きな要素だ。
 そして、この身体をどうしようかと考えたとき、生活や仕事や家庭…それぞれと大きく関わるのだなと、当然のことを思う。

 例えば、この本では本物以外のガン(これは中身を読んで)は「ほおっておく」を推奨する。
 そんなことが現実的に決断できるものなのか…

 そういえば、ふと昨年ある研修会でお話を聞いた人のガン克服の体験談が思い出された。
 テーマとは直接関わりのないご自身の話題だったが、今思い返すと、なんだかこの本に書いてあることと共通項があるような気がしてならない。

 とにかく、危険なことが書いていて、読んで納得してしまうこともまた危険な(と周囲からは思われる)本であることは確かであり、それだけは言える。

石川晋先生を招いての会

2014年07月15日 | 雑記帳
 ぼやあっとしていたら,いつの間にかあと半月になっていました。

 ご案内,宣伝です。

 私の所属する湯沢雄勝国語教育研究会で,講師として北海道の石川晋先生を招いた夏の講座「まるごと一日国語教育講座」を開きます。
 関心があり,ご都合がつく方はぜひお申し込みください。

 ちょうど昨日,朝日新聞の「花まる先生」の記事に登場していました。

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 期 日 8月1日(金)

 場 所 羽後町文化交流施設「美里音」  
  
 テーマ 授業力をみがく

 日 程
 
  9:50~  開会行事
 10:00~  あすの授業に役立つミニ講座
       (会員4名による提案等)
 11:50~  昼食・休憩
 13:20~  石川晋先生の講座         ・
     講座1「国語授業・言語活動のアイデア」
     講座2「授業力をみがく」
 16:10~  質疑応答
 16:40~  閉会行事    
 (18:00より講師を囲んでの懇親会を湯沢市で開催)

 会 費 1000円

 申込先は以下のところまで「学校名・氏名・懇親会参加の有無」を知らせてください。(★を@を変えてください)

 事務局 大内秀朗(34727★sch.city-yuzawa.jp)
 または 沼澤晴夫(h-numazawa★nifty.com)

 多くの方々の参加をお待ちしています。

小骨どころではないか

2014年07月14日 | 雑記帳
 ちょうど一週間前の地方紙コラムだが、小骨のように引っかかっている記事がある。「飲酒運転と教員の現状」と題していい文章だと思う。一言でその構えをいうと「同情」か。しかし、そんなことを地方紙とはいえ一面に書いてどうすると思う。そこに到るまで、マスコミとして見逃してきた責任の自覚が全くない。


 土曜日、結婚披露宴帰りの車中である方が宣う。「長渕剛の歌は好きだが、あいつの肉体はニセものだ。俺たちのように仕事で鍛えた身体ではない。ジムで作り上げられたものだ。」妙に納得したが、小骨が残っている。たぶん、今の長渕には歌うためにあの身体が必要になっている。それは逞しい楽器としての身体。


 教師には敏感さが必要だ。これはずうっと思ってきた。もちろん、その程度の敏感さを超越している、いい教師もいる。しかし凡人教師は、子どもや親の姿、表情、気持ちをとらえるための感覚を研ぎ澄まさなくてはいけない。ただし、反応をどうするかは別問題。敏感さはそれを外に表出することとイコールではない。


 サッカーW杯終了。大会前の興味は、日本の初戦敗北で半分に下がり、グループ敗退でほとんど皆無になった。醒めている自分の「日本は前評判が高いときは駄目」という予想はあたった。それにしても、と思うのは8年前は「フォワードを育てろ」批判であり、今は「守備でしょ」が目立つ。単なる結果論の吹聴か。



 机上に置かれた一枚のチラシを見て驚いた。「道徳教育×『HERO』」。ネットの話題で知ってはいたが,文科省がそれを配るとはねえ…。小骨などとは言っていられないかもしれない。ポスターもあり校内掲示せよというわけか。そこに「道徳教育より健康教育。9時には寝なさい」と付け加えたらいかがなものか。

生を描く映画美し

2014年07月13日 | 雑記帳
 一部に?名画の評価がある『わが母の記』を今頃になってビデオで視聴した。たぶん映画館だったら泣いたかもしれない。主人公が幼い頃に書いた詩の一節を惚けた母が口にして、大事にしまっていたその紙片を開き出す場面である。幼い頃から抱いてきた疑念が温かに溶けだす、その時をうまくとらえていたなあ。


 誰もが少しは持ち合わせている感情を、個々の登場人物に入れ込みながら、うまく物語を展開させていた。原作がどうかは知らないが、監督の原田眞人の手腕はさすがだ。作品は少ないが映画らしい映画をつくる人だ。配役もセンスがある。樹木希林は別格として、娘役、孫娘役の女優たちがぴたりとはまっていた。


 途中に何度もうまいアングルだなあと思う箇所があった。遠景から人物を映し出す場合にも、その人物の動きが見えるように工夫されていて、伝わってくる質量が独特だ。ある意味で人間の生の複雑さを描いた作品と言っていいだろうが、映画全体がそういうトータル感を持っている。晩秋の紅葉のイメージのような。


 それはある意味で,物語が伏線にあふれているということなのかもしれない。種が根を張り,芽を出して,茎をのばし,枝をひろげ,新しい葉を出し,葉が色づき…。骨格は把握したつもりだが,見直せばきっといくつものつながりを感じるに違いない。ぼんやりとテレビで見ちゃだめか。失礼な向き合い方だったか。


 さて、原作者の井上靖といえば、本学区にある中学校校歌の作詞者である。40年も前になるが、依頼されて作ったらしい。その折だろうか、本校にも直筆の言葉が残され、今は石碑に彫られて窓の外に鎮座している。「故里の山河美し 故里のこころ美し」…大作家が書くと、なんでも様になるというが、まさしく。

新参者に振り回されて

2014年07月12日 | 雑記帳
 岩波書店の『図書』6月号に載っていた対談「芸術と科学の向かう先」は興味深かった。画家の横尾忠則と脳科学者の櫻井芳雄が語りあっている。「頭が先か、体が先か?」というテーマは考えさせられた。画家がキャンパスに向かう時の心身の状態はにわかに想像できないが、言葉ありきではないことは予想がつく。


 「言葉は新参者」という生物機能に関する発達の歴史は何を物語るか。「目で見る」といったいわゆる五感を使って生き、コミュニケーションをとってきたヒトは、新参者によって少しずつ蝕まれてきたのだろうか。そういう筋道をたどると、「頭」や「心」なんてものの脆弱さを感じてしまう。もっと体を信じよ。


 「体は嘘をつかない」「体は正直だ」…ごく普通に使われるけれど、実は大変な真実だということがわかる。つまり、「頭は嘘をつく」「心は偽りに満ちている(オーバーか)」ということを示している。対談で話されている例は、お腹がすいたから食事をとると、12時だから昼食をとるとの違い…毎日、頭に忠実だ。


 原始時代じゃないだろ、とツッコミを入れたくなる。頭に従う習慣があるからこそ、円滑な社会生活やらを営めるのであって…そんなこと言うならやってみるがいいさ、と捨てゼリフも言いたくなるほどだ。ところがその言葉を吐かせているのは、縛られた自分だよ、あなたの体は別のことを欲しているんじゃないか。


 「言葉や頭」を批判する言葉や頭、それに引っ張られるようにキーボードを叩く体。まったく不毛といっていい時間がここにある。では「体を取り戻す」ために何かできるのか。とりあえずは思いつくのは「外言封じ」。体や表情で表す(伝えるという意識なしに?)時間を多くとる。不気味と思われるだろうなあ。