すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「20世紀少年」つながり…1

2008年09月15日 | 雑記帳
 しばらくぶりに観た映画が『20世紀少年』では頭脳レベルが知れてしまうが、それなりに楽しめた。
 感想はさておき、選んだ理由の一つは監督が堤幸彦であったこと。
 『金田一~~』や『トリック』などは興味がなかったが、映画『明日の記憶』でぐっと印象づけられた。

 帰宅してから、堤が取り上げられたNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』の録画を視た。後でゆっくりと思ってそのままにしておいたものだ。

 テレビ業界のADからスタートした堤の感覚は、やはり他の映画監督とは違うものだった。
 一番印象に残ったのは、撮影の現場から離れてモニターを見ながら指示を出すことである。
 「生の演技を見てしまったらそれに対して何も言えなくなる」というような気弱な言い方をしながら、実は観客が見るのは映像である、その映像から伝わるものが全てである、という信念がはっきりと感じとれた。

 おそらくは今日本で一番の売れっ子監督。「奇才」という表現をNHKはしたが、それよりもキャスターの茂木が書いているように「人を喜ばせたい」という願いの強さが、映像に出ているのだと思う。それゆえたくさんの口がかかる。『20世紀少年』も同様だろう。

 しかし堤は、自分自身がこれだと思う代表作をまで創りあげていないと語る。
 ホテル?の部屋の中で構想を練りながら、賞味期限はあと8年と少し悩み、あせる雰囲気の場面が妙に気になった。
 まったくの同年代だけに余計にそう感じたのかもしれない。

 まさしく君も『20世紀少年』の一人か。

重いことを語る薄い本

2008年09月13日 | 読書
 話すことが苦手であるという思いが強いからか、「話し方」などの本を買うことが多かった。
 しかしある程度の冊数を読んで、少し食傷気味であることも確かである。

 そうは思いながら、過日本屋で次の本を手に取った。
 
 『話すチカラをつくる本』(三笠書房)

 薄いくていい、愚娘にも読ませようかな、などという理由もあるが、やはり一番は著者。
 山田ズーニーだというところに惹かれた。
 ほぼ日で出している『おとなの小論文教室』は、その書名とは少しかけ離れた印象がある本だった。
 「書き方」よりも「生き方」のインパクトが強いとでも言ったらいいか…。

 この薄い本も確かに、「方法」「技術」がしっかり組み立てられながら書かれてあるが、やはり著者らしさが出ていると感じた。

 あなたの根っこにある思い

 「伝わる要件」の最後に出したこの言葉。
 話し方の本なのに、「何を言うか」より「どんな気持ちで言うか」が大事と言い切る。もちろん字面だけならその手の言葉はたくさん出会ったが、著者は「自分の根本思想は『自慢』でした」とさらけ出すことで、読み手との距離をぐっと縮めてみせる。

 もう一つ、今までの著書と重なっていて、山田が強調している言葉がこれだ。

 相手理解

 これを表面的に行ってしまったとき、人が信頼をなくすことを知らぬ者はいないだろう。
 つまり、根っこにある思いが対象である相手に向いていないとできないことである。
 そう考えると、「相手理解」は単純な言葉であるが、そこには真剣に向き合うという姿勢が貫かれていなければならない。

 コミュニケーションは実は重いものなんだと、この軽く薄い本は教えてくれる。

5回のなぜによるカイゼン

2008年09月11日 | 雑記帳
 ビジネス誌などを読んでいると、頻繁にトヨタの「カイゼン」という言葉が出てくる。
 自分の仕事にも応用できないかと思って目を通すこともあるのだが、実際そんなに適用できているわけではない。
 今までの中で印象的なのは「見える化」ぐらいだろうか。

 この頃、見かけた言葉で気になっているのは、これである。

 5回のなぜ

 問題解決のために「なぜを5回繰りかえす」手法だという。
 失敗や停滞への対応を、対症療法的にしてはいけないということだろう。
 なぜを繰りかえすことによって、より本質的な原因は何かということへ向かう。それが2回や3回でなく、5回としたところに徹底が見える。
 実際に何かを例にしてみればわかるが、なぜを5回繰りかえしていくことは結構大変である。分析力も根気も必要になってくる。
 強い思いでカイゼンを目指す意志がないと、難しいとも言える。
 
 教育の場で適用する場合においても、結局「自分」を対象にすることが基本となる。
 つまり「なぜ、○男は授業中の発言が少ないのだろう」ではなくて「なぜ、○男に授業中の発言を多くさせられないのだろう」からスタートするということだ。
 ここで問われるのは自分の思考や行動であり、その吟味と対策を考えることは結構つらいが、確実にモノになっていくだろう。

 もちろん「書きとめる」という見える化も忘れられない。
 振り返りによって、どの段階がポイントかもチェックができる。

あこがれも感化も…

2008年09月09日 | 雑記帳
 私が知らない何かを、「この人は知っている。」そんな直観のようなものが、私たちの先生に対するあこがれを育む。

 脳科学者の茂木健一郎氏が、『たのしい学校』(大日本図書刊)という小冊子の冒頭エッセイに記している。
 「あこがれと尊敬」と題したそのエッセイで、茂木は学校と教師の役割について触れている。

 学校の先生は、子どもたちを「感化する」存在なのである。

 それが全てではないにしろ、非常に大きな意味を持っていることは私もわかっているつもりだ。
 だからこそ年度初めに繰り返して言うことの一つに「先生方の得意を生かして…」がある。
 これは目標への迫り方の技術でもあり、一番売れるものをさらに売るという戦略的な意味もあるが、そればかりではない。
 自分の好きなこと、得意なことを見せる、つかうときにこそ、教師の元気さが子どもたちに伝わるはずだという思いが強い。

 そして茂木の考えに沿えば、元気さが伝わることは感化につながり、学びを乞う姿勢へと向かうはずである。
(と、ここで止めてもいいはずだが)
 それにしても、それにしてもである。
 「上から目線」という批判めいた言い方一つにも、区別もけじめもないフラットな関係を志向している人がいかに多いかわかる。
 そして学校と病院、医師と教師はその矢面に立っているような印象がある。子どもたちにも確実に伝わっている。

 しかし、そんな流行の言い方を繰りかえすことは、本当にいい関係を築くことにプラスになるのか。
 考えてみるがいい。「国民目線で」を繰りかえしたこの国の宰相はあっけなく政権を放り出してしまった。

 「目線」の高低差など何ほどのものか、というパワーを持たないと人を掌握することなどできないということではないか。

また光を見つめて

2008年09月08日 | 読書
 『写真俳句のすすめ』(森村誠一著 朝日文庫)が面白かった。

 以前購読していた俳句の月刊誌に「写俳」というコーナーがあって、感心しながら眺めていたことがあった。自分自身はそれを短歌でやってみようと、つい去年あたりまではボツボツ作っていたのだが、どうも長続きできない性分のようだ。
 NHK教育放送で、時々「写真俳句」は取り上げられていたように思う。
 著者の森村誠一氏がでていた記憶もある。改めてまとまったものを読むと、私のような万年初心者はまたクイクイとその世界に惹かれてしまうことを感じる。
 永遠の憧れの世界なのか…。そういう気分で本の中の句を引用すると、次の二句になる。

 暮れ残る光の破片(かけら)胸にあり

 遠き峰動かぬままに人は老い

 俳人の著書も結構読んだ気がするが、それ以上に日本人の機微がわかる本だと思う。
 例えば、次の一節はどうか。

 湯豆腐の侘しさは宿命的な侘しさである。
 
 ここを読み、私の胸にずっと残っている句を思い出せるのも、ああいいもんだと思ったりする。
 久保田万太郎の句だと記憶しているが。

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 

千冊の道で

2008年09月07日 | 雑記帳
 8月に自宅のネット環境を変えたために、2001年に作ったホームページを閉じることにした。もちろん新しいプロバイダーにそっくり移すことも可能なのだが、これを機に整理を加えたいという(かなり無謀な)考えもあり、この休みを機に再構築することとした。
 ソフトを新規購入しファイルをうつすことになったのだが、膨大な?量のためかどうも作業中に固まってしまうことが多い。これは結構難儀しそうだ。

 とりあえずは継続している読書記録だけでもと思い、昨日から先ほどまで苦戦しながらもどうにか1ラウンド終了。
 名称はそのまま「すぷりんぐ」を使う。

 「こんなほんだな」と名づけたページは、2001年から始まっている。
 最初の年は生真面目に「教育系」のものに絞ったのだが、どうせならと思い全部の読書をリスト的にまとめることにしたものだ。
 内容はたいしたことのない本ばかりだが、さすがに継続を感じさせる量となっている。
 リストに載っているものでおよそ700冊。実は「百冊読破」を始めたのは99年であり、リスト前の2年間を加えるとおそらく900冊はゆうに越えているはずだ。
 従って、今年の数を加えると総数として1000を越えたか、越えないかというところだと思う。

 ファイルの移動作業をしながら、改めて書名をずらっと見たが、印象に残っていない本も確かに多い。しかし、もう一度手にとってみたいという気になる本もある。
 年末までは今年も100冊を目指し、それが達成できたら確実に1000冊読破したと言えるだろうし、ここらで意識的にまとまった数を再読してみることも、面白いかなあと考えている。評価は同じになるだろうか。

 10年、1000冊。
 自分の中に何かストックできたものがあったとすれば、それは嬉しい。

不滅の言葉を思い出す

2008年09月05日 | 読書
 『情報化時代の学校変革力』(高陵社書店)を読んだ。

 ICT活用にかかわるリーダーたちへのインタビュー集なのだが、聞き手でもある編者があとがきに記しているように「話の行き着く先が不思議なほど似ている」ことに、読み終わってみると妙に納得している自分がいた。

 ICT活用を語りながら、その本質は「子どもに力をつける」ことであり、そのために教育の仕事にかかわる私たちの創意と工夫と努力を求めている。

 最終章が、なんと野口芳宏先生へのインタビューであることが、この本を物語っているような気がする。
 結局、いくつか列挙できる授業の原則めいたものは変わることはないし、便利なものには必ず光と影があることを認識することである。
 そして、何よりけして忘れてはいけない不滅の言葉が思い浮かぶ。

 教育は人なり

 つまり、この本の題名に即していえば「学校変革力=本質を忘れず努力する力」とまとめていい気がする。

 ともあれ、ICT活用に関わる具体的なアイデアやヒントも数多くあって刺激になる本でした。はい。

最適化を拒んでみること

2008年09月04日 | 読書
 『グーグルが日本を破壊する』(PHP新書 竹内一正著) ずいぶんと物騒なタイトルである。
 しかしその中身は、広告を中心とするビジネスモデルのあり方といった類のものである。

 グーグルの飛躍的な普及には、確かに自分自身も恩恵に与っていると言えるのだが、それは一面ではグーグルで検索するもの全てに商業的な価値があり、ターゲットにされる要素が広がっていることには違いないのである。
 日々、そうした自覚で画面に向き合っているわけではないが、知らず知らずに取り込まれていくことの怖さを時々思い起こしていくことは大切だ。

 マイクロソフトや新聞社、テレビ局等との比較はなかなか面白かったが、開発技術に関する文章は正直ちんぷんかんぷんの部分も多い。
 そんな中で、情報への接し方、向き合い方を考えたときに、はああっと思わされる箇所が二か所あった。どちらも引用されている文章がもとになっているのだが、この点に自覚的であるかどうかはずいぶんと大きな問題と思う。
 
 日本人の弱気の遺伝子

 環境に最適化した生物は、その環境が激変したときに生きていられなくなる


 巨大なものの言うことに逆らえずに(あきらめて)安心して、グーグルで検索しながら目に入った広告をもとにしてモノを買い続ける日本人に、激変の刃はどう突きつけられるか。

 時々強気になって逆らって、最適化を拒んでみること。
 それがある意味で「生きる実感」なのかもしれない、などという考えが浮かぶ。

紙芝居の行方

2008年09月03日 | 雑記帳
 朝のNHKニュースを見ていたら、暮らしの情報(のような)コーナーで「ユニーク紙芝居」と銘打たれた紹介があった。

 最初はテレビ画面を使っての紙芝居?である。
 DVDかビデオソフトかわからないが、絵の下にセリフやト書きがあってそれを専用リモコンマイクで読んでやるという形だ。画面は粗いが紙芝居的な感覚で絵の出し入れがあり、マイクに入れる声は、声質の変化までできるようだ。孫へ読み聞かせているおじいちゃんの顔も満足気である。

 しかしこんなに機械に頼って、その子どもが「おじいちゃんに読んでもらった」という気になるものだろうか。記憶の底に残るものは何なのだろうか…やはり実物の舞台があり、肉声でなけりゃ…などと思っていたら…
 
 次はなんとお風呂場で使える紙芝居。
 これは、お父さんが幼い娘二人にお風呂の中で実に楽しそうに小さい版の紙芝居を読んであげている。
 「濡れても大丈夫」が売りで、小さい舞台のようなセットもあるではないか。
これならお手軽だし、なかなかいいコミュニケーションだ…でもきっと限られた家庭の限られた一時期のものだろうな…などと思っていたら…

 今度は「紙芝居のウェブ化」。
 以前からその関係のサイトも多少あったようだが、実際あまり活用されていないように思う。やはり関心のある方々には紙芝居は実物で…という意識が強いのではないだろうか。
 ところが、このウェブ化は少し意味合いが違うようだ。紙芝居の収集をしている保育系の大学が、古くなった紙芝居の保存を進めるというねらいを持ちながら行っている面があるようだ。
 確かに紙芝居についてそんなに多く新規出版はないだろうし、かなり古いものが多くの学校などに残っているはずだ。中には価値の高いものもあるだろう。番組でも著名な画家の作品もあったというナレーションもついていた。
 ああこういうものこそ「ストック」するべきだと思った。視聴覚機器としてパソコンを最大限に生かすことのできる活動だろう。

 これにどう息を吹き込んで子どもの心へ届けることができるか、学校現場として考えてみたい仕事だ。

花火は「揚げる」もの

2008年09月02日 | 雑記帳
 恥ずかしながら知らなかった。
 花火は「上げる」ものではなく、「揚げる」ものだったことを。

 落語について書かれた文章を見ていたら「花火を揚げる」という表現があった。何回も書かれているので誤植ではないなと思ったが、「揚げる」となると天ぷらのイメージが強く、ちょっと違和感を覚えた。
 しかし、よく考えると「旗を揚げる」という使い方もあることだし、これはナルホドかもしれないと思った。
 ネットで調べてみたら、以下のようなページが
 こんなページもあった。
 さらに納得。

 花火は単に上げるのではなく、揚げるのだ。
 そう思うと、本県の誇り?でもある大曲の全国花火競技大会などは、正しく打ち揚げ花火と使わねばなるまい。
 どうかな?

 オフィシャルページでは、まずまず正しいようだ。

 言葉一つとっても、そこには携わる人の意識が反映されているはずだ。
 そういう意味で「揚げる」はまさしく花火職人としての言葉だろうし、それは正確に表わさなくてはならない。

 そんなこと言ってもその競技大会をテレビで見ているようじゃ、誠意はないなあ。