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下ごしらえの発想

2019年04月10日 | 雑記帳
 発酵学者の小泉武夫がある冊子に「人生、生涯下ごしらえ」というエッセイを寄せていた。歳末の新幹線車中で子供たちが騒然としていて、ほとんどの親が叱らないというよく耳にする話題から、著名な料理人から「下ごしらえ」の大事さを聞いたエピソードを交え、「小さい時の下ごしらえ」の大切さを述べていた。


 「下ごしらえ」とは「前もって準備しておく」こと、つまり料理などでは「本格的に作る前にあらかじめ材料に手を加えておくこと」を指す。それを子どもの成長、生き方に重ね合わせて、「社会に生きるための基本」を身につけさせたいと考えるのは真っ当であるし、多くの人は賛同するだろう。しかし現実はどうか。


 料理人のエピソードは「下ごしらえの場」について、次のような内容を持つ。一つは言うまでもなく「場数」である。もちろん単に経験を指すわけでない。芋の皮むきも魚の鱗落としも「心を込めて何年もやらなければ駄目」なのである。この場数が、家庭において学校において保障されているか、甚だ疑問である。


 もう一つ、下ごしらえの基本として「無駄をださないこと」が挙げられている。様々なとらえ方があるだろうが、連想するのは、やはり物質的な豊かさが変えた生活の質が及ぼす影響だろう。しかし、これはある程度工夫すれば、というより、大人の精神の在り方がそのまま子どもに伝わり身につくことだ。自らを想え。


 「下ごしらえ」の発想は、先日書いた「備え」と似ているが、より明確に目標や出来上がりの姿がイメージされている。それは職業的なことではなく人間としての生き方を指している。まず、親や大人がその点を語っているかも大切だ。押しつけと言われることに尻込みばかりしていると、肝心の素材が腐ってしまう。 


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