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蓋をしないで、迎えようぜ

2019年04月09日 | 雑記帳
 外務省の「元号不使用」に官邸が不快感というニュースを見たとき、なんとなくやはりネという気持ちが湧いた。そして日曜の朝刊に「西暦使用し裁判官任官かなわず」という記事を読むときに、どうにもこの国の歪さを感じてしまう。法そのものより優先されるのは慣行、もっと言えばムード、空気に支配される国だ。


 元号という国古来の文化に個人的には愛着もあるし使い分けできればいいと考える。しかし個別に様々な考えがあるし、公共秩序に反しない限り、その思想・信条を守ることは大前提だ。東京オリンピック開催しかり、改元問題しかり、イケイケドンドンの中に、潜んでいる問題点にフタしておこうという傾向が見える。


 同じ日曜朝刊の「こども新聞」Q&Aコーナーに「『改元』って何?」と取り上げられ、こう答がある。「元号とは、古代中国で生まれた年数の数え方です。皇帝が時間を支配するという考え方に基づいて使われました」。そもそもこういう背景を持つ元号を認めたくない人がいて当然で、何故その現実と折り合わないのか。


 独自な意見を持つ者は「固執し従わない」という決めつけがあるのかもしれない。国際的な場では通用しない元号であっても、使用しないことを不遜と捉えているのかもしれない。そこには、いくら人権がどうの、グローバルがどうのと言っても、結局は多数に倣え、上に従えという旧態依然の思考がくすぶっている。


 そんなふうに考えると、せっかくきれいなイメージに思えた「令和」も濁ったように見えてくる。「平成」を振り返る報道、メディアによる特集等が続いている。懐かしさに浸ってもいい、もちろん無視してもいい。それが「民度」の高さと言えないか。様々な声に蓋をしないで落ち着いて考え、来るラインを待ちたい。


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