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国の教育というチームプレー

2006年08月19日 | 雑記帳
 日本という国は、何を教え、育ててきたか。

 別に靖国や歴史を語ろうとしているのではない。
『オシムの言葉』に載っていた一節が頭に残っているのだ。

 「日本人は、平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。野心に欠ける。」

 なんとなくわかる。
「出る杭は打たれる」「足並みをそろえて」といった感覚は、知らず知らずのうちに私たちの身体に沁み込んでいるようだ。そうした世間の目、習性が教育に影響を及ぼさないわけがない。

 では、なぜそうなったのか。
 岡本薫氏が月刊誌に書いていた次の言葉がリンクした。

 日本では学習指導要領に何の記述もないのに、教師が子どもたちに「日本は資源の少ない脆弱な小国だ」という意識を植え付けている

 なるほど、と思った。自分もそういう言い方を聞いたことがある。そしてそれと似た言い方を社会科の時間にしたような記憶もかすかにある。
 この、いわば自虐的な言い方によって、漠然と不安を抱え、危機感を持っている日本人は、「まとまり」や「勤勉」そして「協調」を好むように育てられる。その結果、「進取」に満ちた性格は養いづらいのかもしれない。

 しかし、その勤勉性や協調性が、外国の教育専門家から多くの賛辞をもらったことがある。
 阪神淡路大震災後の復興にかかわる時だった。負傷者の救援や援助物資の配分における協力体制、犯罪の少なさである。
 国内でもいくらかアナウンスされたとは言いながら、それが教育の成果だと強調されたことはなかった。例えば特別活動における当番活動、班活動、行事等々といった活動の独自性、それによって培われてきたことをもっと検証してもよくなかったかと思う。
 もちろん、一部でそういう動きはあったろうが、広がらなかったのは事実である。
 これも、自らをアピールすることを嫌う控え目な国民性のなせることか。

 国の教育という大きなチームプレーがうまく機能しているか、難しいところである。
 戦う相手が変わってきていることだけは確かで、それに対してどんな策をとるのか。
 新たな戦術は必要だろうけども、自らの良さをもとにするものではありたい。

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