『授業づくりネットワーク』の4月号のあとがきに編集部の丸山さんが、兵庫県の山田先生のことを紹介している。
不登校児童を初めて持った20数年前に、先輩教師に児童のことを問われ、「学習がよくできる」「性格がおとなしい」といったことでなく、「彼の好きな食べ物」「水曜日の7時に見る番組」「好きな色」といったことを知るべきである、と気づかされた…
改めて「子どもを知る」とは何か、を考えさせられる。
キャリアを重ねれば重ねるほど、類型化しようという傾向が強まっている自分を感じる。
「子どもが変わってきている」という言い方をよくするが、「変わってきている」というその言い方は方向性を定めた、大雑把な固定的な考え方でないか、とも思える。
つまり、実際をどれだけ集めているか、という反省である。
それもアンケートでとるような生活項目ではなくて、先の問いのように具体的な名前で表れるものとしてである。
「見ている番組」や「よく遊んでいるゲーム」の内容を知らずにその子を真の意味で理解できるかという問題に、私たちは正対しなければならない。
既存の知識や経験で子どもを「解釈」してみても、それが何の役に立つというのか。
肝心なのは、実際を知り、その実際に働きかけながら、内面を鍛えていくことなのである。
そのためにも、子どもが挙げる具体的な名前を多く知ることが必要だ。
不登校児童を初めて持った20数年前に、先輩教師に児童のことを問われ、「学習がよくできる」「性格がおとなしい」といったことでなく、「彼の好きな食べ物」「水曜日の7時に見る番組」「好きな色」といったことを知るべきである、と気づかされた…
改めて「子どもを知る」とは何か、を考えさせられる。
キャリアを重ねれば重ねるほど、類型化しようという傾向が強まっている自分を感じる。
「子どもが変わってきている」という言い方をよくするが、「変わってきている」というその言い方は方向性を定めた、大雑把な固定的な考え方でないか、とも思える。
つまり、実際をどれだけ集めているか、という反省である。
それもアンケートでとるような生活項目ではなくて、先の問いのように具体的な名前で表れるものとしてである。
「見ている番組」や「よく遊んでいるゲーム」の内容を知らずにその子を真の意味で理解できるかという問題に、私たちは正対しなければならない。
既存の知識や経験で子どもを「解釈」してみても、それが何の役に立つというのか。
肝心なのは、実際を知り、その実際に働きかけながら、内面を鍛えていくことなのである。
そのためにも、子どもが挙げる具体的な名前を多く知ることが必要だ。
私も丸山さんのこの記事をみて思い出したことがあります。私は先輩教師に、
「子どもを知るということは、子どもがなりたい自分を知るということだ」
ということを教わりました。これが分かるから、指導ができるのだと思いました。
先達はあらまほしきものかな、です。
教室が「寒く」なっているのは、やはり教師の視線なのだと思います。
子どもを知ろうと見つめる目には、柔らかい印象があります。
そういう眼差しを持つ先輩がたくさんいたなあと思い出しています。