「流行語大賞」にイチャモンをつけてみる。
まずは「お・も・て・な・し」だ。
今年の夏、まだ例のオリンピック開催決定以前に、こんな一文を書いていた。
お盆に「もてなす」を考える
「取り扱う行動」に日本人の精神性を込めた言葉とでも解釈できる。
この「お」は謙譲を表わすということだな。
(ここから「人生幸朗」風…大方の人が??だとは思いますが)
しかし、どうしてそれを、例のあの区切るような口調で言わなきゃいけないのだ。
外国人相手に、その言葉を覚えさえようとでもいうのか。
そしてあの、微妙な手の動きはなんだ。
区切りの強調か。リズムの可視化か。
見方によっては、日本人の器の小ささだ。
そんなふうに身に付いたらどうする。
「オオウッ、コレガニホンノ、オ・モ・テ・ナ・シ デスネ」
流行にのって、子どもが言うならともかく、大の大人が全然関係ない場の挨拶で使ったりするじゃないか。
こちらは、全然もてなされている気分はせずに、まあこんな場だからいいでしょ、という薄っぺらな予定調和の世界だろう、それは。
「もてなす」という日本語をこんなに軽くしたのは誰だ!
責任者、出てこい!
(一応出番終了・笑)
続いて「今でしょ」。
これを初めて聞いたのは三月、テレビではなく、ある会で教師が使い、子どもたちが答えていた。
もう流行っていたのだろうが、知らなかった。
春以降、すごい勢いだった。
リズムがいい、短い言い切り、汎用性がある…流行る要素がたくさんある。
そしてふっと、この言葉は今の世の中の典型的に求められる姿であることに気づく。
つまりは、即断、即決、スピード化…。
今やるべき、今見たい、今ほしい…こうした欲望も含めて、前のめりの人間がどんどん、どんどん背中を押されていくような。
今でなくてはいけないのか…そんなことを先日読み聞かせの会の方々と、ちょっと話した。
取り上げた話への子どもたちの反応をみて「難しかったかな」とつぶやいた方に、「そのうちわかることもあるし…」「いつかふっと思い出すときがあるかも…」そんなふうに語って、今でなくともよいものの価値なんてことを話した。
私は、授業において酒井臣吾先生言うところの「見切り発車」を促すタイプではあるが、「待つ」という重みについても十分自覚しているつもりだ。
「今でしょ」という思考のよさは十分わかる。
しかし、それが列車のように次々に連発される思考が優先される教室や学校にしてはいけない。
そういう世の中になりつつある気配が感じられるからこそ、意識的でありたい。
現に「今でしょ」と言わんばかりに、危い方向への舵取りが進んでいないか。