すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

選ばれた誰かたちの物語

2013年12月07日 | 読書
 『雪男は向こうからやって来た』(角幡唯介  集英社文庫)

 雪男の存在を信じるかと問われれば、「雪男もUFOも宇宙人も信じます、ただし軽くだけどネ」といった程度の認識である。
 もちろん、どれ一つ実際に見たわけではない。ただこの広い地球、宇宙には私たちの想像を超えた存在はあるだろうな、という考えを持っているということだ。

 そして、この本を読み終えてわかるのは、こういう私のような程度の人間には、けして「雪男は向こうからやって来」はしない、ということだ。

 仮に何かの偶然、奇跡があって、姿を表したとしても、「えっ、えっほんと…そうかあ…ふうん、やっぱりそんなこともあるんだ、驚いたあ…でも、早くご飯食べたい」とそんな感じではないだろうか。


 この著の半分は、雪男捜索そのものより、雪男捜索に魅入られた男たちのドラマを描いている。
 その中には雪崩に遭い、命を落とした方々もいる。そこまでして、険しい山の中に入り、自然と格闘しながら、じっとその出現を待つ。
 探検という「作業」の始終を見せながら、その内面に迫っていく記録だ。

 雪男捜索に取り組もうとする心を突き動かすのは何か…初めはその存在自体に懐疑的だった著者が、たどりついた結論は、例えばこの一言だ。

 認識の曇らされた人間の前には雪男は現れないのではないか。

 存在の有無の問題より、もはやこれは人の生きる姿勢のようなものだ。
 著者が続けた文章は、もはや雪男捜索という出来事のことではない。

 それまでの人生を振り出しに戻しかねないアクシデントが仮に起きた場合でも、それをあるがままに受け取らず、常識的な眼鏡を通してその現象を殺菌洗浄し、あくまで理路整然とそれを処理してしまう

 人はよく「出会い」という言葉を使うが、事の大小、幸不幸いずれの場合も全ては受けとめるあり方でしかないことに痛切に感じさせる。


 解説を書いた三浦しをんが、このインパクトの強い題名を取り上げて、本質を見事に言い切った文章がある。

 雪男は、尾根の向こうからやって来るのではない。雪男は、向こうからやって来る。「おまえだ」と、我々のなかのだれかを選んで。

 その言を借りれば、この本は「選ばれただれか」たちの物語であり、その生き方の人間臭さがずんと伝わってくる。