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「裏」の持つエネルギー

2013年12月16日 | 雑記帳
 奥田秀朗の小説『オリンピックの身代金』は未読だが,先日2夜連続で放映されたドラマを録っておいたので,休日を利用して観た。もちろんエンターテイメント色が強いが,昭和39年の東京オリンピック開催当時の社会の一断面を抉り出した面もあった。犯人役が秋田出身という背景を持つことにも惹きつけられた。


 高度成長期の輝きの裏に,多くの犠牲があったことは予想できる。出稼ぎ労働者の事故死や過労死は,数字でとらえられる悲惨さだけでなく,貧困さから抜け出せない地方の現実が浮かび上がる。農政の変化,機械化政策,現金収入,過剰労働,違法行為等々,ステレオタイプではあるが,その連鎖も成長していった。


 出稼ぎ先で死んだ夫の遺骨を取りに来た妻(その役が戸田恵子というのも合わないが)が東京タワーで初めてのソフトクリームを食べる。そして涙を浮かべ「夫が死んだから都会に来ることが出来て,こんな美味しいものを食べられた」と語る場面は,実際にそんなふうに思う人がいただろうなと強く印象づけられた。


 犯人役の東大生がいうセリフに「格差社会」という今風の表現があったのは少し違和感を持ったが,その落差は現実のものだった。だからこそ田中某という政治家は熱狂的に迎えられた。「裏」の持つエネルギーの集結だった。反面,その展開ゆえに新たなる固定化された地域社会が出来上がったことも否めない。


 必要があって調べた本に,昭和三十年代の中学生の書いた詩が載っていた。この心情は現在でも,地方の者の隅っこにあるのではないか。「ふぶきよ,東京にふるんだ/東京のガスストーブやレンガの家に/金持の屋根にふるんだ/東京の国会議事堂のまわりにふるんだ(略)ふぶきよ,ごうけつよ/東京にふれ。」