【ロシアの柔らかい脇腹とは?】テロ事件があぶり出すロシア経済のアキレス腱、プーチンが〝切れない〟旧ソ連最貧国との関係
佐藤俊介( 経済ジャーナリスト)Wedge ONLINE
モスクワ郊外で起きた大規模テロ事件を契機に高まった中央アジア移民排斥の風潮に、ロシアのプーチン政権が苦慮している。ウクライナ侵攻を受けた徴兵増や、若年層の国外脱出で国内の労働者不足が深刻化するなか、移民労働者の減少はロシア経済の回復に打撃となるためだ。
移民規制はテロ実行犯の出身国であるタジキスタンの政治・経済に打撃を与え、親ロシアのラフモン政権を揺るがしかねない。〝ロシアの柔らかい脇腹〟とも称される中央アジアの不安定化は、過激主義に傾倒する若者をさらに増大させ、ロシアを一層のテロの脅威にさらす危険性もある。
殺害予告
「一体、どうしていいのか分からない。私は妊娠をしているのに、怖くて外に出ることもできない」
ロシア西部の都市イワノボで、理髪店を営む女性は現地メディアの取材にそう打ち明けたという。彼女の店では、テロ事件の実行犯とされるタジキスタン出身の容疑者が働いていた。男を雇っていた事実を恨まれ、女性の家には彼女の殺害を予告する脅迫電話が鳴り続けた。
テロ実行犯として拘束された4人の男は皆、旧ソ連・タジキスタン出身者だった。当局により拘束された男はいずれも、顔が腫れ上がるなど拷問によるものと思われる跡があった。右側の耳に、大きな包帯を当てていた容疑者の一人は、当局による尋問のさなかに、片耳を切り落とされていたとの報道もある。
そのような姿をあえてさらしたのは、当局が強硬な姿勢で取り締まりを行うことをアピールする狙いもあったもようだ。モスクワ市民が広く知る人気のコンサートホールで銃を乱射し、140人以上が犠牲になった今回のテロ事件。そのような蛮行の発生を食い止められなかった当局が、少しでも国民の支持を回復するには、犯人らへの苛烈な取り締まりをあからさまにさらすほかはなかった。
怒りは当然、一般市民にも広がった。タジク人が運転するタクシーが乗車拒否されたり、暴行される事態も発生したほか、タジク人が経営する店舗が放火されるなどのケースも報じられている。
労働移民に対する警察の尋問が強化されただけでなく、警官が労働者から、金品を巻き上げるケースもあったという。ネット上では、有力ブロガーらが労働移民の徹底排除を要求する主張を繰り広げ、「殺害しても構わない」などの過激主張も行われた。政界でも移民規制強化を求める声が上がった。
移民に依存するも、低位に見るロシア社会
ただロシアにとり、安易な移民規制強化は決して容易ではない。ロシア経済は中央アジア諸国出身者の労働力に、深く依存しているためだ。
ロシアでは、約1億4000万人の人口のうち、約5%にあたる700万人あまりが外国からの移民とされ、さらにその8割はタジクやウズベキスタン、キルギスなど中央アジア出身者とされる。多くは、労働目的の移民とみられ、タジク出身者は100万人程度とされる。相当な規模を占めているのが実情だ。
「ロシア経済における多くの分野は、移民に深く依存している。それらの分野は彼らなしで、安定的な展開は見込めない」。ドイツを拠点とするカーネギー・ロシア・ユーラシア・センターの中央アジア専門家、チムール・ウメロフ氏は米メディアにそう断じた。
実際、モスクワなどの大都市では、店舗や清掃、ドライバー、また理髪店など、どこでもタジクなど中央アジア出身者を見かける。ロシア経済を底辺で支えているのが、中央アジア出身の移民労働者だ。
一方で、彼らはロシア人と共存しているように見えるが、実際には多くのロシア人は、彼らが社会の低位にいるとみなしている。今回のような事件が発生すれば、即座に民族的な憎悪の対象となることは不思議ではない。
深刻な労働者不足
ただ、ロシアの労働力はすでに、深刻な不足に陥っている。ウクライナ侵攻を受け、ロシアではIT分野の専門家や弁護士、芸術家、デザイナーなど、今後成長が期待される分野を中心に、若年層の国外脱出が相次いだ。侵攻開始直後に非営利団体が実施した推計では、これらの業態の従事者を中心に、約30万人がロシアを脱出したとされる。
同時期に脱出できたのは、資金面で余裕がある限られた層であり、その後も一定規模の脱出が続いた可能性が高い。海外生活で資金が底をつき、やむなく帰国したケースもあるが、外国でも収入を得られる術があるロシア人の多くが、海外移住を希望していることは従前から知られている。
加えて、徴兵の拡大がある。侵攻開始から約半年が過ぎた段階で、ロシアは「部分動員」との名目で、約30万人の若者を追加動員した。徴兵は特に、人口が希薄なシベリアや極東など地方を中心に実施されたとみられ、このような動きは特に、地方経済にとり打撃になる。
ロシア科学アカデミーによれば、同国では2023年に約480万人の労働者不足が発生していたという。ロシア経済は、中国やインド向けなど、欧米諸国の制裁を回避して行われた原油などの資源輸出増や、軍需産業への投資とみられる公共投資の拡大などを背景に、制裁による経済の落ち込みを抑え込んだ。すでに、回復フェーズに入っているが、労働力不足は新たな経済発展の芽を摘む結果につながるのは必至だ。
持ちつ持たれつのタジキスタンとの関係
ただ、ロシアによる移民規制の動きは、ロシアでの出稼ぎ収入に依存するタジク経済や、同国を率いるラフモン政権に厳しい打撃を与えかねない。さらに同国の不安定化は、ロシアを標的とするイスラム国(IS)などのテロ集団の伸長につながりかねない矛盾をはらんでいる。
タジキスタンは1991年に旧ソ連から独立したが、独立後に内戦が激化し、和平に至ったもののイスラム系野党は活動が禁じられた。90年代から続くラフモン政権は独裁体制を強め、深刻な汚職体質も指摘されている。タジクの1人当たりの国内総生産(GDP)は約1000ドル(約15万円)と、旧ソ連で最低水準にとどまっていて、GDPの約3割は、ロシアなど海外からの出稼ぎ労働者による送金とも指摘されている。
そのように経済基盤がぜい弱なタジクにとり、ロシアによる労働移民の規制強化は深刻な脅威となる。ロシアは移民受け入れでタジク経済を事実上支えているほか、ロシア陸軍がタジク国内に駐留するなど、軍事・経済両面で深い関係を持つ。プーチン政権は、事実上ラフモン政権の後ろ盾といえ、そのような政権を窮地に追い込むことは、プーチン氏にとっても得策ではない。
さらに、タジク経済の一層の悪化は、同国の不安定化を招き、ISのさらなる伸長と、ロシアへの流入増を招きかねない。ただ移民規制を強化しなければ、結局はそれも、ロシアへのISの流入増を引き起こす結果につながる。
タジクなど中央アジアやロシア南部のカフカス地方はもともと、〝ソ連の柔らかい脇腹〟と呼ばれ、ロシアにとり慎重な対応が求められる地域だ。ロシア経済は欧米の制裁網をかいくぐり成長が加速しつつあるが、戦争を背景にした労働力減少という思わぬ弱点をさらけだした格好だ。