読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

失敗の本質 ―日本軍の組織論的研究

2011年04月28日 | 経営・組織・企業

失敗の本質  ―日本軍の組織論的研究

野中郁次郎 他 著

 

平時の際に安定的に機能してきたことがわざわいとなって、有事の際にまったく機能しなくなる…となると、まさしく今の政府とか東京電力みたいだけど、日本の伝統的組織は、どうも有事の際に失敗に陥りやすい。失敗の原因となる因子が、組織をつくりあげるときにプログラム的に組み込まれているとも言える。その顕著な例を太平洋戦争時の日本軍にみる。

その原因を一つにつきつめると、「目的の二重性」に陥りやすい、ということになる。ある戦略ないし事業の目標が2つ併存してしまう。この2つのどちらがメインでどちらがサブかという合意がなく、各自が各自で都合のいいようにいずれかの目的を主眼にしてしまう。本書によれば、ミッドウェー海戦も、レイテ海戦も、インパール進軍も、沖縄戦もこの罠にはまっている。

目的がダブルスタンダード、それは「原則論」と「現実論」だったり、各セクションそれぞれの「理想論」だったりするわけだけれど、なんでこういうことが起こってしまうのか。本書ではこの起因として、

1.固定化されたパラダイム(ものの見方)
2.論理性よりも情緒性が優先される人間関係重視型意志決定
3.官僚型の縦割り組織

を指摘している。1に関して言えば、陸軍では歩兵の白兵戦、海軍では主艦同士の大砲決戦こそが勝利の方程式、というのが完全に金科玉条になっていたわけだが、要するに過去の成功体験にあまりに引きずられ過ぎて、現実の対応ができなくなるということである。こういった、現実を見失った「原則論」が、戦術の選択肢の幅や、想定外のことが起こったときの臨機応変さを喪失させていく。こういう原則論は当然のことながら現場ではそのままでは通用しないことが多く、その微調整は現場の個人の才覚で成されていく。こと、戦時中にあっては「超人的」な精神と技量で、この矛盾を克服していくことになる。

しかしこうした個人の技量に依存したやり方は、方法論の他者との共有とか後任の育成とかが困難になり、組織全体としてはやはり変化スピードを遅くし、環境変化についていけなくなる遠因となっていく。しかもここに2や3が入ってくると、誤謬や錯誤を修正するプログラムが働かず、相互チェック機能も不全となり、むしろ1を強化、つまり過去の価値の強化のほうにベクトルがむいてしまうのである。

 

こういった日本の伝統的組織の悪弊は、“大企業病”とか“イノベーションのジレンマ”とか呼ばれて、21世紀の今となっては自明の理である。にもかかわらず、こういう組織は未だに多く、今回の有事でもやっぱり同じようなことになっている。いったいなぜだろうか。

 

ここで大胆な仮説を考えてみた。

どうも、日本の組織というか意思決定には「詰めない文化」というのがあるように思う。目的であれ主張であれ、解釈の誤解ないところまで思想を共有する「詰め」が甘く、どこかで「後は察してくれ」という期待がある。本書によれば、この相手への「察し」を期待し、結果、うまくいかなかった例がかなり多い。

コトバとして詰めず、あとは相互に「察す」ことで、意志共有と意思決定をはかっていくから、どうしても手前に都合のよい解釈と期待がそこに残る。これが、戦略目的の二重性を生む温床になっているように思う。

だが、なぜ「詰めないのか」というのをそれこそ極力まで詰めて考えると、これは「日本語」という言語体系と言語特色に原因があるのではないかとも思う。つまり、日本語というのは、外国語、なかんずく西洋言語に比べて、きわめて意味の冗長性と省略の文化がプログラムとしてこめられている言語であり、もともと「解釈のあそび幅」をほとんどなくすように意志共有していく記号体系としてむいていないのである。また、そういう言語を平時からあやつってきたわけだから、「察する」ことまで織り込みずみでコミュニケーションを相互にする。これの拡大したのがいわゆる「空気」というものになっていくのだと思うが、そういう言語だから、逆に「コトバだけで詰めていく」ことは日本語という機能にしても、あるいは日本語を解したコミュニケーションとしても、逆に不自然で不自由な空間がそこに出現することになってしまうのである。

ユニクロや楽天が社内公用語を英語にする試みをしている。これはもちろんグローバル市場への対応ということもあるわけだが、そうすることで、企業の意思決定や組織の運用そのものががらりと変わる可能性がある。解釈の多様性の入る余地がない、ガチガチに論理構造化された意思決定集団となる可能性があるのだ。

 

まるで日本語が悪いかのような書きかたをしてしまったが、「失敗の本質」という切り口から考えるとそういうことになる。

だが、もちろん逆も言える。本来、日本語というものは、「詰めなくても」相互の意思決定がそれなりになんとかなるという、逆に西洋言語からすると信じられない離れ業のような奇蹟の言語体系なのである。5・7・5の十七文字で宇宙を語れてしまう言語なのである。それが逆に「成功の本質」として起因する時と場合だって当然あったはずだ。ここの可能性をいつか本当に考えてみたい。

 

 

 

 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« それでも、日本人は「戦争」... | トップ | 平凡倶楽部 »