読書の記録

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センスメイキング 本当に重要なものを見極める力

2018年12月26日 | ビジネス本

センスメイキング 本当に重要なものを見極める力

 

著:クリスチャン・マスビアウ 訳:斎藤栄一郎

プレジデント社

 

 

ビッグデータや、コンサルティング会社が良く使うような経営指標主義に反旗を翻す本。性格的には「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか」と似たようなところがある。アンチ「マネー・ボール」的とでも言えばよいか。

 

本書曰く、世の中を知るには、市場を知るには、人間を知るには、ビッグデータなどではなくてしっかり「センスメイキング」をしなければならない。センスメイキングというのは”鍛え上げられた直観”とでも言えばいいのか、いま目の前で起こっていることや、市場や人間や世の中が放つ有形無形の兆しを手掛かりに物事を判断する能力である。ビッグデータが定量的で抽象的な情報であることに対し、センスメイキングは定性的で具体的な情報を察知する能力が問われる。Wikipedia にも「センスメイキング」の項目があって、OODAとも関係してくるらしい。

 

で、そのセンスメイキングの能力はいかにして高めるか、というのが本書の主題である。本書いわく、必要とするのは「哲学」の素養であり、もっと具体的にいうと「現象学」の考え方である。

 

「現象学」かあ。たいして勉強していないのでよくわかっていないが、「現象学」というとフッサールを思い出す。しかし、本書で強力に推しているのはハイデガーである。ハイデガーの「現象学」を説明してみろ、と言われてもモゴモゴしてしまう。ある現象が目の前にあるとして、その現象を解釈するにあたってはその現象自体が単体独立として意味を持つということはなく、その現象の背後にある「文脈」がその現象に意味を与える、というものという感じだろうか。たとえば「腹が減った」という現象は、それが飢餓で何日も食べていないことによるものか、ダイエットの最中で目標達成まであとわずかというものか、どこからか鰻のいい匂いが漂ってきて思わず感じたものかによって、まったく意味が異なる。こういう文脈を切り離して「腹が減った」という現象のみを解釈することはできない。

つまり、目の前で起こっていること、市場の現象、人間の行動、世の中の現象はすべてなんらかの文脈を背負っている。言い換えると、大きな文脈の一部の現れなのである。郵便ポストが赤いのも何かの文脈の現れなのである。

 

よって、ある事件があったとして、その事件の解決法をめぐっていくらレポートを聞いてもケーススタディを調べても、その事件特有の文脈がわからなければ解決はしない。そして事件特有の文脈は現場に行かないとわからない。即ち「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ。」ということである。そうか。あれはハイデガーだったのか。

 

 

ところで、目の前の対象を、細かく腑分けしていくいわゆる「分析」という能力、これを素早く正確にできることがいわゆる「優秀な人」の素養と言える。偏見承知でいうと、優秀な東大の文系の人はこれに秀でている。エリート官僚なんかはこれがものすごく上手な気がする。複雑な問題をひとつひとつ解きほぐして手のひらサイズに解題していく。それを次から次へとこなす。これに必要な能力とは何がどうなっているのかの構造を見抜く「論理力」、分解しやすい単位に変換させる「定量化力」、特殊な現象を一般のものに敷衍させる「一般化力」だろう。

これに対して、目の前の対象は、実は何かもっと大きなものの一部である、というもうひとつ外側のレイヤーに思いを馳せようとするのが、梅棹忠夫や今西錦司などが所属した新京都学派の連中だ。これに必要な能力は、微細な情報も漏らさない「観察力」、どうすれば辻褄があう世界仮説がつくれるかという「物語力」、どんな特殊な案件でもそれを尊重する「個別適応力」である。

僕は勝手に「分析脳」と「統合脳」、あるいは「東大脳」と「京大脳」という風に読んでいる。どっちが良い悪いということはない。求められる時と場所がそれぞれ違うということなんだろう。

 

ただ、「思考の整理学」で有名な外山慈比古氏は、「分析はコンピュータの得意とすることであり、人間は統合力こそ求められる」ということを80年代に述べている。今年話題になった「AI VS 教科書が読めない子どもたち」の新井紀子氏は、なぜかAIが得意とする領域のほうに学校教育のカリキュラムが組まれる(つまり、AIの劣化版のことしかできず、AIができないことはできない「何の役にも立たない」人間が大量に発生する)という薄気味悪い指摘をしている。

 

目の前の現象から様々な兆しを読み取るのは、本来的には動物的な野生能力といってもよい。万事が定量化され、類型化され、管理化される「脱野生」的な今日だからこそ、その背後にある数字にならないもの、類型におさまらないもの、管理しようがないものを察知する能力が、これからの世の中における他人やAIとの競争力の源泉だろう。「分析脳」もけっこうだが、ここはひとつ「統合脳」を鍛えていかねばなどと思う。

 

そのための秘訣は本書によれば、「個人」より「文化」、「薄いデータ」より「厚いデータ」、「動物園」より「サバンナ」、「GPS」より「北極星」、「生産性」より「創造性」とのことである。詳細は本書を参照されたいが、僕が思うにこれはエスノグラフィ(民俗学)のセンスだ。

問題があるとすれば、これの欠点はひたすら風呂敷が広がっていって時間がかかってしょうがないことである。そもそもエスノグラフィというのはたいへん手間暇がかかる学問である。

したがってことの本質は「短時間でセンスメイキングができるようになるにはどうすればよいか」ということになる。これすなわち”鍛え上げられた直観力”ということになり、普段から筋トレよろしく「現象学」を身に着けるようになっていなければならない。

本ばかり読んでないで街に出なさい、ということだろうか。

 

 


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