読書の記録

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わたし、定時で帰ります。 (ネタバレ)

2019年04月21日 | 小説・文芸

わたし、定時で帰ります。 (ネタバレ)

 

朱野帰子

新潮社

 

テレビドラマの第一話を観たら面白かったので原作小説を買って読んでみた。したがって、ネタバレである。ドラマが原作と同じように展開するのかどうかはわからないが(少なくとも第一話の時点で原作とはいろいろ違っていたが)、先を知りたくない方はこの先気を付けられたし。

それにしても会社あるあるだ。多くの人がそう思うに違いない。小説だからカリカチュアされているけれど、どの登場人物もなんらか覚えがある。

 

要するに、ここに出てくる登場人物は主人公の由衣も含めていずれも利己的なのである。みんな利己的なのは、そうしなければ心身のサバイバルができないのが職場というものだからである。したがって彼らが利己的であることそのものを責めるわけにはいかない。誰にだってサバイブ、すなわち生き残る手段を画策することを止めることはできないからだ。由衣が定時に帰ることを信条にするのも、晃太郎が24時間戦えますかタイプなのも、三谷が皆勤賞にしがみつくのも、新人来栖が由衣から晃太郎に意趣替えしたのも、賤ヶ岳が子どもの熱が40度になっても家に帰らないのも、こうしないとサバイバルできないと考えてしまうからだ。

ブラック上司福永の滅茶苦茶も、悲しいかなあれが彼の唯一のサバイバル方法だからである。この人の根底にあるのは自分はサバイブできないのではないかという不安である。追い詰められた不安が逆上となってどんどんわけのわからない事態をくりひろげていく。福永としては自分をサバイブするために、自分の持ち合わせた能力の中でできることといったらあんなふうにクライアントの無茶要求をのみ、新人を人前で怒鳴り、他人の弱みにつけこみ、下請けを追い詰め、自分はさっさと早帰りしてほっかむりを決めることしかできないのである。

そもそもこういうマネージャーの器でない人を管理職にすること自体が問題なのだが、その人事にあたった丸杉というなかなかえげつない役員がそもそもサバイブのための方便としてこの人事をやっているのである。

つまり、職場というのはそういう各自のサバイブをかけた利己の衝突という面が少なからずある。職場の理不尽の正体というのはまさにこれであって、ブラックな上司とかブラックな職場というのは、経営者からバイトまで各人が生存権利として持っているサバイブの衝突の結果なのだ。避けようのない天災みたいなものなのである。丸杉みたいな役員がいずこともなく表れて好き放題やってどこかに去っていくというのも台風みたいなもので天災の一種である。丸杉とか福永みたいな人間が現れることがあるのが会社組織なのだ。

「働き方改革」が本格化しているが、実は見落とされているのはここである。「働き方改革」の多くは組織を機械システム論的にとらえることで生産性向上を導こうとするが、いっぽうで組織というのは人の集合でもあるのに生態学的にとらえる観点が不足しているように思う。当たり前だけど社員だって人生がかかっているのだから「対策」をするのだ。中国のことわざに「上からの政策に、下からの対策」というのがあるが、「働き方改革」で時間単位あたり生産性向上で残業禁止となると、その方向が自分のサバイブとベクトルがあう人は歓迎するし、それが自分のサバイブを脅かすことになる人(この小説なら皆勤賞の三谷、会社に住む男の吾妻、ブラック上司の福永、流しの役員丸杉)は、自分のサバイブのために「対策」をしちゃうのである。追い詰めれば追い詰めるほど「対策」も過激化していく。このような社員ひとりひとりがとろうとする生存競争戦略をどうふまえるか、つまり「社員のサバイブのシノギあい」をどう解決するかという点も「働き方改革」には必要であり、そうしない限りブラック企業というのはなくならない。

残念ながらいまのところ「働き方改革」はこういう生態学的な観点があまり重視されていないから、これらの避けがたい理不尽に対処するのは個人個人によるしかない。天災には防災である。職場において個人が求められるスキルというのは、利己的なふるまいをする他人によって生じる悪影響をいかに被らずに、かつ、自分の利己を通すかという技術である。人のサバイブは別の人の犠牲で成り立つことが多いのは世の常だから仕方がない。

その防災方法のひとつが、相手の利己都合を尊重したままサバイブの方法を変えさせることである。つまり、相手が信じるサバイブの方法をそれはサバイブではない、あるいはそれをしなくてもあなたはサバイブできる、と誘うことだ。憑き物落としに似ていなくもない。けっきょく、由衣は、三谷にも賤ケ岳にも吾妻にも福永にも晃太郎にもこの方法を使う。彼らの利己を責めるのではなく、利己を満たす別の方法へと誘導するのである。人は自分の利己が満たされれば、他人が何をしても気にならない。三谷も賤ケ岳も来栖も福永も晃太郎も彼らのサバイブが保障され、プライドが満たされれば、由衣が定時に帰っても自分のアイデンティティは傷つかないし、文句も言わないのである。小説だからラスボス福永と、真のラスボス晃太郎のサバイブ変更はなかなかの大仕掛けでドラマチックだが、本質的にはそういうことである。

したがってこういう思考実験も可能である。たまたまこれは時節をとらえた「定時で帰りたい」由衣のサバイブの物語なのだから、同じ方程式でたとえばスーパーワーキングマザー賤ケ岳のサバイブが成功するストーリー、会社に住む男吾妻のサバイブが成功するストーリー、あまつさえブラック上司我妻のサバイブが成功して、由衣の「定時帰り」が崩れて何かのサバイブに置き換わる話だって当然可能である。並行世界ものとして面白いかもしれない。(人気が出るかどうかは不明だが)

 

それにしても、「働き方改革」には社員ひとりひとりが安心してサバイブが保証できる観点を持ってほしいものだ。とくにホワイトカラーの生産性なんてモチベーションでなんぼのところがある。dead or alive が蔓延するような職場で制度だけの「働き方改革」を進めても水面下の「対策」が進んでしまうだけということを、政府も経営者も心してほしい。

 


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