読書の記録

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世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること

2020年11月18日 | ビジネス本
世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること
 
ニール・ヒンディ 訳:小巻靖子
CROSSMEDIA PUBLISHING
 
 
 なんとなく、今流行に乗ったようなタイトルだが、原タイトルは「Renaissance of Renaissance Thinking -A New Paradigm in Management」である。「ルネッサンス思考のルネッサンスー新しい時代のマネジメント」といったところか。翻訳本は邦題がかなり意訳されていることが多いので、かならず原タイトルを確認することにしている。原タイトルには著者の主張や本書の主題がしっかりと現れていることが多い。
 
 「ルネッサンス思考のルネッサンス」というのは謎めいたタイトルだが、愚直に訳すと「ルネッサンス時代の思考様式の復興」という意味合いになる。
 本書ではルネッサンス思考とはまさにルネッサンス時代の思考のことを指している。メディチ家とかレオナルド・ダ・ヴィンチのことだ。
 ルネッサンス時代は「進取の気鋭」に富んだ時代だった。一見逆説的だが、ルネッサンスとは古代の知恵や知識の復興を意味する。メディチ家は、かつてのギリシャ時代の知見を過去の遺物とみなさず、むしろここにこれから未来の世界を模索する手がかりがあるとして、そこに人材や予算を割いたのである。日本風にいうと「温故知新」という言葉に近いかもしれない。
 で、ルネッサンスが見出したギリシャ時代の知見こそが「アート」なのである。
 
 とはいえ、この「アート」はかなり広い範囲を指している。現在一般に言うところの「美術」とか「芸術」の範囲をゆうに超えている。文系と理系をカバーし、科学と思想をハイブリッドにする。あえていうと「統合」的なものの見方こそがアートなのである。
 
 「ルネッサンス思考のルネッサンス」とは、このメディチ家の時代にあった統合されたものの見方を、現代に復興すべき、という意味合いである。
 
 これは裏を返すと、今日のものの見方が統合の反対―分断的ということである。文と理がわかれ、科学と創作行為がわかれる。平たく言えば左脳的領域と右脳的領域がわかれている。こと、ビジネス領域においては「左脳」が幅を効かせる時代が長かった。
 しかし、論理と科学だけでビジネスを企て、まわしていってもうまくいく時代はなくなった。むしろ、右脳的直観こそがこれからの不透明な時代に必要な資質である。左脳と右脳をいったりきたりしながら道を切り開くのである――というのが本書の主張である。
 このあたりの議論はここ数年かなり頻出している。内田和成の「右脳思考」とか、佐宗邦威の「直観と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN」とかもその代表例だろう。本を待つまでもなく、スティーブ・ジョブズとApple社なんてのはその典型的な例だ。本書の邦題もこのあたりの潮流を意識したものだろう。
 
 統合されたものに「美」が宿る。これがアートである。
 
 
 「真・善・美」の中で、人を動かすのは「美」である、と語ったのは文芸評論家の福田和也である。これはまことに名言で、僕のココロにずいぶん深く刺さっている。「美」があれば、「真」や「善」については少々怪しくてもかまわないのだ。
 むしろ「美」は、科学的に語ろうとしたり論理的に語ろうとした途端、「美」ではなくなり、輝きを失う。理屈めいた衣をまとった「真」や「善」に堕ちる。かつてのソニーは「美」の企業だったがいつのまにやら「真」や「善」にとどまるようになってしまい、そのオーラを失った。
 「美」を「美」のままにしてコトを成し遂げるにはすさまじいエネルギーがいる。関係者の反対をふっきり、周囲の顰蹙をものともせず、完成するまでは身銭を犠牲にしなければならない。信じられるのは自分のセンスだけである。そして完成した暁には、それにしっかり「美」が宿っているものならば、人はどっとなだれをうって動く。
 
 したがって、「美」でもって事態を変えるにはすさまじいエネルギーがいる。本書ではそれを「執念」と呼ぶ。
 
 「グリッド(やりきる力)」という概念が注目されたのもここ最近のことだが、つきとつめると肝心なのはここなんじゃないかという気がする。「美」とはやりきることだとさえ言いたくなる。
 学生時代も仕事先でも、とりつかれたようにコトを進める人を何人か見た。彼らの、くらいついて没頭して障害を蹴散らして何が何でも実現させる執念は、損得勘定とかどこで手を抜いて楽するかという考えが一切なかった。努力も才能のうち、という人もいるが、ここまでがむしゃらにやることで、細部にも徹底にこだわることで、どこまでもどこまでも頭をかきむしってアイデアをひねり出すことで、彼らの仕事の成果物はたしかに「美」があった。もちろんうまくいったプロジェクトもいまくいかなかったプロジェクトもあったが、うまくいったほうの完成度の高さというか、他の追随の許さなさは間違いがなかった。ここまでの執念を自分は持てるかと問われると自信がない。
 
 であれば。執念に必要なものは、ただ自分を信じられるか、という一点につきる。アーティストとは自分を信じられる人だ。心の底から信じられなければ続けられないのである。
 じゃあ、アーティストには不安はないのか、と聞きたくなるが、どうもそんなことはないようだ
 むしろつねに不安と戦っているともいえる。それでも不安を押し殺して自分を信じなければらなない。こうなるともはやアスリートと同じである。そして本書でもあるように起業家とも同じである。
 
 「美」とは、やりきる力があってこそ体現し、そのためには不安に押しつぶされず、自分を信じるタフな心臓がいるのである。ルネッサンス時代のアーティストはみんなタフであった。左脳で計算ばかりしていてはノミの心臓になっていくばかりである。
 

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