読書の記録

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愛するということ

2018年09月18日 | 哲学・宗教・思想
愛するということ
 
エーリッヒ・フロム 訳:鈴木昌
紀伊国屋書店
 
 
 
フロム曰く「与えること」こそが愛である。
 
 
「与えること」こそが成熟な愛の行為という、このこと自体はキリスト教でも浄土真宗でも数ある新興宗教でも掲げているし、互恵的利他主義こそが最大的な利得を得るというゲーム理論も存在する。
しかし、多くの宗教もかかげるこの「与えること」というのは、実践としてはなかなか困難なものである。なぜならばそこに見返りも自己のプライドも見出してはならないからだ。人というものはなかなか弱いもので、無償に「与え続ける」ことはどうしても抵抗がある。「与え続ければ、最後にはいいことがある」。これも見返りを期待しているからダメなのである。
 
我々は何かを選択するとき「それが損か得か」ということを意識する。本能と言ってよい。生命システムとしてこの判断ががないと命にかかわるから、当然といえば当然である。
 
ところが、今日の自由主義社会と資本主義社会は、この「損か得か」という本能を肥大させ、エネルギーにすることによって社会を循環させるようになった。あまりにもそれが浸透しすぎてしまっている結果、我々は交換と消費の経済社会にさらされているということに気づかないでさえいる。
我々は、自由主義と資本主義にもとづいた経済社会において、人間自身も経済価値で自らを定義づけ、意思決定し、行動するようになり、相手も値踏みするようになった。
 
そして、そのことが「愛」という領域においても支配するようになっているのである。
そのため、社会には「愛され方」ばかりがはびこることになった。「愛され方」を指南する本が次々と出版され、意中の人から世間一般まで「いかに愛されるか」に人は汲々とするようになった。「愛され方」とは市場価値の高め方に他ならない。
 
 
フロムの「愛するということ」は、1956年に書かれたものだ。この時代から既にそういう傾向があったのだ。そして現在なお、本書は大きな問題意識を投げかけている。現代においても、TVドラマから、雑誌の特集から、Webのコラムまで「愛され方」は毎日のように情報発信されている。一方で「愛し方」の領域にたどり着いているのは、純文学とか教育論とか、そういう堅苦しいことばかりになってしまった。
 
これは「愛される」ほうが楽だし、心地よいし、気持ちよいからである。「愛する」のは、とくに「愛し続ける」のは努力を要する。忍耐を要する。つまり、「愛される」と「愛する」は逆ベクトルの等価ということではなくて非対称なのである。「愛する」ほうがずっとエネルギーを要するのだ。今ではあまりにも形骸化してしまっているが結婚式のときの誓い「健やかなるときも、病めるときも、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓う」。神の前で誓うほどに覚悟がいることなのである。
 
 
しかし、フロムは「愛され方」に汲々している限り、未来に成長も幸福もないと喝破した。「愛され方」ばかり追求する個人は幸福ならず、「愛され方」ばかりはびこる社会は平和に成長しない。
 
  本人が「愛」と思っていて、その実「愛ではない」ものをフロムはたくさん挙げている。
 
たとえば、母親の子どもに対する「愛」。最近は毒親という言葉もしばしば見かけるようになったが、子どもが小さいうちはまだ「愛」は試されていない。手離れし、独り立ちするときこそ「愛」は試される。
「愛」とは「愛する者の生命や成長を積極的に気をつけること」であると同時に「他人がその人らしく成長・発展していくように気遣う」ものでなければならない。そのためには「その人らしさ」が何かを知らなければならない。たとえそれが親の志向や価値観にあわなくても、それがその子にとっての「らしさ」であれば、その「らしさ」が成長・発展していくように気遣わなくてはならない。そしてそれを「与え」続けなければならない。
 
フロムによれば、父親の「愛」は条件付きになりやすいという。良いと思うもの、悪いと思うものの基準を意識無意識関わらず設定してしまい、それに子どもがそれに適った言動をすれば「褒め」、叶わなかった場合は叱る。あるいはがっかりする。つまり、価値が下がる。これが権威主義である。
「愛」であるならば、どうあっても受け入れるべきだし、基準は「父」の中にあるのではなく、その「子」の中に可能性として見出さなければならない。努力を要する。
 
ほかにも「愛」のようでいて、その正体は「共依存」だったり「投影」だったり「利己主義」だったりするものをフロムは挙げている。
 
 
 
「愛すること」は簡単なことではない。フロムはこうまとめている。
 
畢竟「愛すること」とは、ナルシズムの克服であり、「客観性」の獲得ということになる。
どうすれば「客観性」を得られるかとなると、自分自身が偏った物差しを持っているという自覚をつねに持つことであり、「謙虚」でなければならない。そして相手を信じ、相手を信じる自分を信じなければならない。それも今目の前にあるものの消費ではなく、今は目の前になくても、将来への可能性を信じなくてはならない。
 
それこそが、幸福と希望と平和への扉となる「愛し方」である。自分と相手(この相手とは意中の異性、子ども、肉親、友人、仲間、世界の人類すべてまでに敷衍する)の幸福と希望と平和への道のりである。
 
 

 


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