読書の記録

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AI VS. 教科書が読めない子供たち

2018年11月28日 | テクノロジー

AI VS.  教科書が読めない子供たち

新井紀子
東洋経済新聞社


 「シンギュラリティなんて来ません! そんなタワゴトよりもっと深刻な話があるんです!!」と怒られる本。


 閑話休題。
 確かに世の中は「アタマを使わなくてよい」方向に進んでおり、それが人間の論理力を弱めているのではないかと思うことはある。それが生まれながらのデジタルエイジである子どもたちに影響を及ぼすのは想像に難くない。

 たとえばパソコン。
 かつてのパソコンは設定がたいへん面倒だった。周辺機器もいちいち接続の規格が異なっていたり、配線やプラグ抜き差しの順番などがあったりした。
 しかし今はなんでもUSBでつなげられるし、操作も手続きも直観的である。たいへん簡単になったわけである。

 そのこと自体は進歩だけれど、かつてのパソコンの接続は、ユーザーにロジックを組み立てる力を課していたのも事実である。なぜうまく作動しないか、とか、どういう手順にのっとればいいか、といった論理を強制的に働かせていた。
 現代のパソコンやスマホは、そういうことにアタマを使わなくてよいのである。

 かつて、鉄道や飛行機を使って遠くへいくときは時刻表という分厚い本を開き、次々とページをめくってどの列車を使い、どの駅で、どう乗り換えるか、というものを調べなければならなかった。それはたいへん面倒な行為だが、交通機関の乗り継ぎというのは言わばアルゴリズムとでもいうか論理のカタマリであって、しかしそれを「論理」などと思わず、そういうものだと思って脳を動かしていた。
 これも、現代ならば「乗換案内」アプリで一発で最適な答えが出る。便利になったものだ。

 しかし、そうやって実生活で論理構成力を鍛える機会が減っていっているのも一方の事実だろう。
 本書にあるように、「子供たちが教科書が読めなくなっている」という現象の背景にはこんなこともあるのではないかと思う。
 「伝え方が9割」「見た目1秒が大事」「1分で話せ」「企画書は1枚」という短時間で相手の直観に訴えるコミュニケーション能力はもてはやされる一方だが、複雑難解な情報の中から骨子を見抜く能力は軽視されがちだ。複雑難解な情報をつくるほうが悪い、と断罪される世の中である。「理科系の作文技術」というロングセラーの名著があるのだが、まさかこれが「マンガでわかる」で企画されるとは思ってもいなかった。


 なるほど。AIが台頭してくると「AIにできないことが人間の強みになる」という結論になるのはまさしく必然で、我々はそこに希望を持つのだけれど、そんなところに「AIにもできることをできる人間ばかり増えている」「AIにできないことをできる人間がいない」という警告の書が本書なのだ。もっと真剣にうけとめるべきだろうと思う。

 


 ところで。これも昔話だが、僕の大学受験はまさしくAI、つまり東ロボ君に情報を教え込むのと同じだったんだなあ、と絶句した。とくに英語と国語。東ロボ君はこの2つが苦手だったそうだが、じつは僕もこの2つがからきしダメたった。英語に関しては、その背後にある英語のありようとでもいうものが会得できず、まさに東ロボ君にあるように、出題の頻出パターンと単語熟語慣用句の丸暗記というフレームによる力業に賭けるしかなかった。そしてさんざん時間かけたくせに最後まで成績はふるわず、偏差値もあがらなかった。国語もしかりで、とくに現代文。本文中の傍線に書いてあることと同じことを述べているものを次の選択肢から選べ、というタイプの設問に手をやき、けっきょく類例の単語が出ている出ていないといった外見上の手がかりに頼るしかなかった。よって国語の成績もよくなかった。ひるがえって数学の成績はそんなに悪くもなかったのである。
 つまり、ぼくはAIの超劣化版ということになる。やれやれ。


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