読書の記録

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うしろめたさの人類学

2018年10月30日 | 民俗学・文化人類学
うしろめたさの人類学
 
松村圭一郎
ミシマ社
 
 
 エチオピアにフィールドワークに赴く人類学者の著者が思う、社会はどうすればよくなるか論だ。「構築人類学」という思想らしい。
 ジャレッド・ダイヤモンドの「昨日までの世界」のように、エチオピアでの生活から、日本をはじめとする先進国のありようを相対的に考察する。エチオピアの社会には、現代日本が失ったもの、あるいは日本には始めからなかったものがある。どちらが良い、どちらが悪い、という話ではない。ただ、社会のオルタナティブとしてそういうやり方もある、あるいはそういうやり方もかつてはあった、とどこまでも相対的に見ていく。これがアカデミズムとしての真摯な態度だ。本書の著者の態度も努めてひかえめだ。しかし、確かにそうだ、という視点を鋭く突いている。
 
 発想の端になっているのはマルセル・モースの「贈与論」だ。「贈与」という行為は贈与経済学として一分野を成しており、ポスト経済成長主義として最近脚光を浴びている。「評価と贈与の経済学」という本をこのブログでも取り上げたことがある。
 たとえば「贈与」とは、"貨幣を媒介とした価値の交換”とは異なる行為である。先に引用した本であれば、「贈与」とは「評価」に紐づくものであり、「貨幣経済」は「契約」に紐づく行為である。
 しかし、「贈与」は一方的な施しかというとそうでもなくて、「返礼」という社会的規範が張り付くことが多い。文化人類学ではコミュニティを観察する上において贈与と返礼の関係をかなり重視している。
 というのは、贈与と返礼は、そのコミュニティの特性を強く表すからだ。かつての日本を評論したJ・ベネディクトの「菊と刀」でも、日本文化における贈与と返礼ー「義理」を仲介としたコミュニケーションの特異性を指摘しているが、日本に限らず多かれ少なかれ世界の人類に贈与経済は存在する。
 本書で出てくる例でいえば、バレンタインデーのチョコレートは「贈与」である。現代日本ではそこにホワイトデーという「返礼」までもが暗黙の了解とされている。「贈与」されるものはモノに限らない。「貨幣」であっても贈与にあたるものがある。たとえば子供にあげるお年玉も「贈与」である。そして貧困国や災害被災地への物資援助やODAも「贈与」の一種だ。
 
 しかし、著者の指摘するように「贈与」に張り付く意味合いは、ときに重くのしかかり、ときに煩わしい。「返礼」もその一つだし、「贈与」には二者間に傾斜的な関係性をつくるものがあったり、やましさを生じさせることがあったりする。そんな「贈与」の重たさに耐えられず、人は敷居の低い「貨幣経済」に逃げようとする。先進国はそういう傾向がある。カネによるやりとりは、送り手も受け手もそれ以上そこに恩も負担も義理も人情も入れさせないチカラがある。カネさえあれば匿名社会で生きていけるし、カネさえあれば公正中立な立場をキープできる。
 そうして、日本をはじめとする先進国ではもはや「カネがない社会」は考えられない。日本国内でも貧困を原因として餓死に至る痛ましい事件がたまに起こるが、近因はカネの欠乏にある。カネがないと現代日本では生きていけない。
 
 
 とはいえ、本書ではエチオピアはカネがなくても生きているとは主張していない。また、カネがないと生きていけない現代日本はよろしくない、とも言っていない。エチオピアには「贈与」が溢れている。もちろん「返礼」も溢れている。それがユートピアとも煩わしいとも評価しない。現象は現象として指摘しつつも、そこにポジネガの評価を下さないのが学問的態度である。
 むしろ大事なのは、現代日本がそうなった由来に思いをはせることだ。そして同じくエチオピアがそうなった由来を考えてみることだ。それが著者のいう構築論的思考だろう。
 
 著者は、贈与をめぐる我々の日々の生活の先には国家があり、市場があることを指摘する。
 著者は、そこに「生活」と「国家」と「市場」の微妙な相互関係や重なりをみる。この三要素は三権分立のように独立しておらず、たがいに相互影響しあっている。
 そして、我々はかつての重たい贈与経済から逃れたと思いきや、新たな「贈与経済」に実は捕まっている。たとえばバレンタインデーが菓子メーカーのマーケティングが始まっているものだったり、祖父母の孫への学資補助が資産の世代間移転を担っていたり、ODAが外交政治の駆け引き道具に使われたり、財団法人が税の優遇になっていたり、「やりがい」が実は不公正な給与形態の隠れ蓑と看破されたように、いっけん見目麗しく彩られた「贈与」も、なにがしかの国家や市場のシステムの中に組み込まれているのが現代社会だ。
 
 指摘されてみれば当然のように思うが、しかし我々は普段の「贈与」の生活に、「国家」を意識しないし、「市場」への影響を顧みない。
 なぜ「贈与」に「国家」や「市場」の影をみない気がするのか。私論として思うに、それは「贈与」においてわれわれは「国家」からの自由、「市場」からの自由を信じたい気持ちがあるからではないかと考える。それくらい我々は「国家」や「市場」のシステムの中で生きている(生かされている)感触がある。
 現代の「贈与」とは、「国家」や「市場」のようなつまらないものから距離をおいた行為という意味合いが張り付いているように思う。そこに「無償の愛」とか「NPO」とか「絆」とかポジティブっぽい言葉が連想されやすいこともその証左だ。そこには「国家」や「市場」に対するネガな見方が存在することを意味する。
 しかし、実は国家や市場はそれでも「贈与」に忍び込んでくるのだ。近代の「国家」や「市場」は、古来からあった「義理」や「人情」を利用して「贈与」という形で近づいてくるのである。
 
 したがって、「贈与」的行為は、それが本当に何を意味するのか思考を果たしたうえで行いたい。「贈与」がダメとは言わない。「贈与」する人間を偽善と批判するつもりもない。誰がいったか「やらない善よりやる偽善」は極めて優れたアジェンダ設定だと思う。「贈与」もまた経済行為であり、社会秩序のひとつである。前近代的な「贈与」であっても、現代的な「贈与」であってもそれは変わらない。
 ただ、大事なのは「贈与」もまたシステムであるということを与件としておくことである。美麗辞句に惑わされない目線があれば、不当な贈与と、まっとうな社会であるための贈与を峻別するリテラシーもつくだろうと思う。
 
 
 なお、本書「うしろめたさの人類学」では、「うしろめたさ」を感じるかどうかをセンサーとしている。「うしろめたさ」という感受性が発動されれば、そこにあるのは道徳律であり、あえてそれを抑圧させず「贈与」してよいし、「国家」や「市場」から距離をおいてもよい。なぜなら「国家」や「市場」はうしろめたさを抑圧させる方向に機能させてきたからだ、というのが著者の指摘である。
 なるほどと思う一方で、実は「国家」や「市場」は、「うしろめたさ」を発動させることさえ計算づくなのではないかとも思う。学校の教育や企業の宣伝活動でいつのまにか良心を刺激させるような、でもよくよく考えるととても恣意的なものはけっこうある。ちなみにぼくは「スイート10ダイヤモンド」は人でなしの極め付けのようなキャンペーンだと思っている。
 自分に生じた「うしろめたさ」は、どこから由来したものかも、とくと思考した上で判断したい。少なくとも著者の言うように「贈与」は結果や成果を求めるものではないだろう。アウトカムを求めた瞬間、それは「国家」や「市場」のシステムに捉われる。ただ目の前の人間との関係性をつくること、それが「贈与」の贈与たる価値だろうと思う。

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