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知的機動力の本質 アメリカ海兵隊の組織論的研究

2018年03月13日 | 経営・組織・企業

知的機動力の本質 アメリカ海兵隊の組織論的研究

 

野中郁次郎

中央公論新社

 

名著「失敗の本質」にはいくつか姉妹編がある。ダイヤモンド社の「失敗の本質ー戦場のリーダーシップ編」もそうだし、日経新聞社から出ている「戦略の本質」も続編としての性格を備えている。ただ、これらは「失敗の本質」に対しての「成功の本質」という性格を帯びている。

ただし、「失敗の本質」の副題が「日本軍の組織論的研究」であることから、失敗の本質を組織論から求めているということであれば、実は「失敗の本質」の対偶にあたるのは野中郁次郎の単書となった中公新書の「アメリカ海兵隊」ではないかと思う。すなわち、日本軍の特性に失敗の本質があったとするなら、アメリカ海兵隊の特性には成功の本質があったという見立てだ。

アメリカ海兵隊の成功の本質のひとつは、手段と目的が冷静に明確に分かれているといってよい。戦争、あるいは外交戦略というものは、大戦略ー戦略ー作戦ー戦術ー戦闘というように階層がわかれているが、大戦略を「目的」とした場合、「戦略」以下はすべて手段である。また、「戦闘」は「戦術」のための手段であり、「戦術」は「作戦」のための手段である。そして「手段」は選ばなければならないし、選ぶことができる。

 

日本軍の場合は、そもそも「大戦略」がなく、そこ以下の本来は「手段」であるべきところが「目的」化した。戦術や戦闘が目的化したのである。その代表が海軍の大艦砲主義と陸軍の白兵戦主義であった。これは日露戦争時のドクトリンであった。もちろん日露戦争と太平洋戦争では状況も環境も異なるのだが、日本軍は日露戦争の成功体験が呪縛となったのだった。

 

アメリカ海兵隊が日本軍と異なったのは、常にその存在必要性を脅かされたことだ。アメリカ軍にはすでに海軍と陸軍と空軍が存在する。陸海空でMECEになっているのだから、したがって「海兵隊」というのはなくてもよさそうである。

海兵隊は、海軍と陸軍と空軍の境目に存在する。それゆえに重要なポジションでもあるが、ニッチにもなりやすい。したがって海兵隊は常に存在意義を問われたし、存在意義を探したのである。海上から兵器と兵士を輸送しての上陸がメインだった時代はそれをドクトリンとして「水陸両用作戦」というコンセプトを開発した。時代がかわって空路輸送がメインになったら機動力をそちらにシフトした。これは用いる武器も、戦術も異なっていく。艦砲や白兵にこだわっているわけにはいかない。

 

そこらへんのことが「アメリカ海兵隊」には書かれているが、それの続編かつ最新版ともいえるのが本書「知的機動力の本質」だ。

基本的には「アメリカ海兵隊」に描かれた最上レイヤーにある「目的」と、それ以下がすべて手段であって柔軟性を担保していることがアメリカ海兵隊の本質であることを本書も踏襲している。そして、それを維持するための組織としての仕組みをSECIスパイラル(暗黙知と形式知・集団知と個人知)を援用して説いている。ここらへんは野中郁次郎の真骨頂であろう。

 

「艦上勤務」にはじまった海兵隊は「水陸両用作戦」というポジションを獲得し、時代環境の変化、科学技術の変化にともなって「水陸空併用作戦」になり、そして「機動戦」となった。

本書は「機動戦とは何か」についても触れられ、本書の後半は海兵隊のテキストである「ウォーファイティング」の翻訳である。

 

機動戦の何たるかもまた、興味深いが、海兵隊で一貫しているのが、その柔軟な組織構造だろう。大戦略という目的以外はすべて取り換え可能な手段である。したがってそのための人事も「手段」だし、統帥のありかたも「手段」であえる。どんな道具や兵器を使うかも「手段」、どのような人材を育成するかも「手段」である。だから戦略がかわれば、作戦がかわれば、これら「手段」はすべて変わる。

肝心なのは、目的と手段の明確な分離であり、目的を完遂するためにいま手元にある「手段」が通用しないとわかったら即、他の手段を講じなければならない、ということだ。この臨機応援さ自由自在さを担保するには、「現場裁量」というものが大きい。現場に裁量をゆだねるならば、そもそもどのような指揮系統が必要かという話になる

平たくいうと、目標だけ伝え、あとは自由にやらせる。ただし、現場前線は自力に目標に到達するだけの技量が求められる。したがって平時にそういう訓練をする。またヘッドクォーターは現場が適切に判断してすぐに実行できるように、情報とツールを供給し続ける仕組みを作らなければならない。

 

つまり、最新の軍隊の組織構造は、ピラミッド式上位下達でも右に倣えでもない。なぜならばそんな硬直した構造では「負ける」からだ。組織構造もまた「手段」なのである。現在の戦争に勝つには硬直した組織ではダメなのである。

 

で、ことは「戦争」に限らない。本書はあくまで海兵隊の研究であるけれど、ひろくビジネスや企業組織のありかたとしても敷衍できると思う(というか本書はそういう普遍に耐える組織論をねらった本であって、戦争や軍隊の教科書ではないことは言うまでもない)。さいきん「ティール組織」という本も注目されているが、多様性と成熟の現代社会の中での組織のありようとしてはなかなか参考になる。

 

また、面白いことにこれがかならずしも現代特有の組織論かというと必ずしもそうではないように思う。読んでいて思い出したのが司馬遷の史記で、列伝のひとつ「汲黯・鄭当時列伝」に汲黯(きゅうあん)という人物についてこんな話が出てくる

 「彼は「清静」を治世の方針とし、それにふさわしい役人を選んで仕事をまかせた。大きな方針は指示したが、こまかいことについては口をさしはさまなかった。汲黯自身は官邸の奥の間で寝てばかりいた。しかし、一年余で東海郡の治績は上がり、彼の評判は高まった。

「史記のつまみぐい」を書いた宮脇俊三氏は「『人選と権限移譲』の要諦」と看破している。

むしろ史記や孫子にある人間的な要素があらためて組織論として顧みられたというべきだろう。本書でも「どのような技術的発展や科学的計算も、戦争における人間的側面を小さくすることはできない。したがって、戦争を武力、兵器、装備の比率に還元し、戦争遂行への人間意志の影響力を無視するドクトリンには、本質的な欠陥がある。」と指摘している。そういう意味で僕は「マネー・ボール」の世界はやっぱり持続可能性がないんじゃないかなんて思うのである。

ブラック企業がことさら話題になっているが、ブラックのブラックたる最大は目的の非開示と権限移譲のされなさにあるのではないかと思う。この点を無視してただ残業時間を制限する「働き方改革」もないんじゃないかななんて思う。

 


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