goo blog サービス終了のお知らせ 

中年おじさんの散策part2

散策内容を紹介します
七福神・温泉・散策案内が主なものです。

施設案内東京-533 泉岳寺

2025-06-30 06:54:52 | 施設案内・東京

私の情報は、facebook twitter. を確認ください。「中華街を大切にする人」「ご利用する人」にはご協力をします。質問があれば、コメント欄 or sosamu@ya2.so-net.ne.jp にご連絡ください。

中年叔父さんの散策2 は楽天ブログに今後移行していく予定です。https://plaza.rakuten.co.jp/mituki00/

10年以上のデーターは移行可能なブログを模索しています。それにしてもgooブログひどすぎる。

 

泉岳寺

 泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。
道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。
さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。
(現在の警視庁の近く)
しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。

 

 

20131213  紅葉
東京都品川区泉岳寺
    泉岳寺①
 暮れのこの時期は泉岳寺は元気になる。そうである赤穂浪士の討ち入り、私の子供の頃は必ず時代劇があったものだが、現在はあまり見ない。 しかし私どもの世代は12月14日は討ち入りと記憶があるはずである。寺では祭り?と称してイベントも行っていたが。その界隈も木々が彩り。特に東京都の木、「銀杏」が美しい。
 泉岳寺は由来のある寺、赤穂浪士以外にも見るべき物があります。 

 

 

20131213  紅葉
東京都品川区泉岳寺
    泉岳寺②
 暮れのこの時期は泉岳寺は元気になる。そうである赤穂浪士の討ち入り、私の子供の頃は必ず時代劇があったものだが、現在はあまり見ない。 しかし私どもの世代は12月14日は討ち入りと記憶があるはずである。寺では祭り?と称してイベントも行っていたが。その界隈も木々が彩り。特に東京都の木、「銀杏」が美しい。
 泉岳寺は由来のある寺、赤穂浪士以外にも見るべき物があります。 

 

20181005 東京南 史跡・見学
東京都港区高輪
              泉岳寺
  泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。
 道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。
 さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。
(現在の警視庁の近く)
 しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。hpより    

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

施設案内東京-532 「舟遊びみづは」

2025-06-29 05:50:11 | 

私の情報は、facebook twitter. を確認ください。「中華街を大切にする人」「ご利用する人」にはご協力をします。質問があれば、コメント欄 or sosamu@ya2.so-net.ne.jp にご連絡ください。

中年叔父さんの散策2 は楽天ブログに今後移行していく予定です。https://plaza.rakuten.co.jp/mituki00/

10年以上のデーターは移行可能なブログを模索しています。それにしてもgooブログひどすぎる。

 

「舟遊びみづは」

「舟遊びみづは」は、1〜12名様迄の少人数で貸切できる、水の上の隠れ家です。
開放感抜群の前部デッキ「舟桟敷」、江戸から続く工芸の職人技を随所に配した数寄屋風の小屋形。
江戸の人々のように、昼夜問わず気軽に舟を貸し切って、あなたの大切な人とホッとするひとときを。
名橋日本橋、スカイツリー、都市の夜景、開けた空。
忙しい日常から離れ、季節のうつろいを感じる時間はすぐそこにあります。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

施設案内東京-532 相田みつを美術館

2025-06-28 05:02:24 | 施設案内・東京

私の情報は、facebook twitter. を確認ください。「中華街を大切にする人」「ご利用する人」にはご協力をします。質問があれば、コメント欄 or sosamu@ya2.so-net.ne.jp にご連絡ください。

中年叔父さんの散策2 は楽天ブログに今後移行していく予定です。https://plaza.rakuten.co.jp/mituki00/

10年以上のデーターは移行可能なブログを模索しています。それにしてもgooブログひどすぎる。

 

相田みつを美術館  03-6212-3200

 

相田みつを美術館  03-6212-3200    http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/aida-m.html


『つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの』(相田みつをの50代後半の言葉)。 
詩人・書家として知られる相田みつをは、1924年5月20日に栃木県足利市で生まれた。本名は光男。雅号、貪不安(ドンフアン)。父は刺繍職人。6人兄弟の3男であり、相田は次兄・幸夫(ゆきお)をよく慕っていた。相田がまだ3、4歳の頃、小学生の幸夫がよく紙芝居を見に連れ出してくれた。その際、家が貧乏で飴を買わずに遠くからタダで見ていた為、あるとき幸夫が紙芝居屋に襟首を掴まれ引きずり出され、皆が見ている前でぶん殴られた。兄一人なら逃げることができたが、幼い弟がいるため捕まったのだ。幸夫は殴られても泣かずにじっと弟を見つめ、紙芝居屋は「強情なヤツめ」と何度も殴った(『歯をくいしばってがまんをしたんだよ 泣くにも泣けなかったんだよ 弟のわたしがいっしょだったから』)。

幸夫は新聞社の模擬テストで県一番に輝いた秀才だったが、家計を助けるため長兄・武雄と同様、小学校を出た後は費用の掛かる旧制中学に通えなかった。そして2人の兄の稼ぎのおかげで4人の弟妹たちが中学に行けた。相田が中学に進むと幸夫は懇々と諭した。「みつを、中学校ってのは下級生を殴るという噂を聞いたけれども、無抵抗な下級生を殴るのは一番野蛮だぞ。無抵抗なものを絶対に殴るなよ」「足袋の穴は恥ずかしくない。その穴から太陽を見ていろ」「どんなにひもじくても、卑しい根性にはならないでくれ」。
そんな優しい兄たちの人生を戦争が狂わせた。

1937年、13歳のときに日中戦争が勃発し、最初に幸夫が兵隊にとられた。出征前に幸夫は弟に言う。「お前なあ、男として生まれてきた以上、しかも中学校に我々の働きで行かせてやったんだから、自分の納得する生き方をしてくれよ。世間の見てくれとか、体裁よりも、自分の心の納得する生き方をしてくれよ」。
幸夫は北京で憲兵隊に回され、自身の調書の書き方ひとつで中国人は即死刑になった。ある日、幸夫から「読んだら燃やせ」「この戦争は間違っていた」と秘密の手紙が相田家に届いた。「自分はいま思想犯の調書を書いているが、捕まえてくるのは北京大学の学生が多くみんな秀才だ。弟を見るようでとても殺すに忍びない。彼らから“どう理屈をいっても武器弾薬を持って他人の国に入って来るのは根本的に間違っている”と言われると二の句が継げない。中国の将来性のある青年を銃殺刑にするのは可哀相だから、なんとか自分の配慮でみんな無罪釈放できるように調書を書いている」。
1941年8月(17歳)、相田家に悲痛な電報が届く。「相田幸夫殿、山西省の戦闘において、左胸部貫通銃創を受け、名誉の戦死」。弔問客が帰った後、母は幸夫の遺影に向かって叫んだ。「幸夫、なんで死んだ、勲章も名誉も母ちゃんはいらない、おまえさえ生きて帰ればなんにもいらない、ユキオ!!ユキオ!!ユキオー!!」。

その後、幸夫の死を看取った戦友Tから手紙が届く。幸夫は撃たれた後2時間ほど生きており、しきりに故郷の親兄弟を心配していた。「死んでゆく自分はいいけれども、両親や弟妹たちの嘆き悲しむ様を想うとそのことが一番つらい」。そして戦友Tは“読んだら必ず焼却して欲しい”と断った後、兄の最期の言葉を記した。「戦争というものは人間の作る最大の罪悪だなぁ……」。同年12月、新たに日米開戦となり、今度は長兄・武雄が兵隊にとられ、1944年5月「ビルマにて戦死」と訃報が届いた(当時、ビルマでは『インパール作戦』の最中。当作戦の日本軍死傷者は5万以上。死者は大半が餓死。武雄もこの作戦で犠牲に)。母は2人の子どもを奪われて気も狂わんばかりになり、85歳で没した際も、臨終前に「武雄!幸夫!」と叫び続けていた。

相田は兄たちを失った後、何か困ったことがあると墓参りに行き「あんちゃんなぁ、どっちの道選んだらいいかなぁ」と石塔と相談するようになった。「私は何かに迷うと、もし、あんちゃんたちが生きていたら、自分がどういう生き方をすれば喜んでくれるだろうかと考えるんです。そして、いつでも、あんちゃんたちが喜ぶ方の道を選ぶんです。私は今日まで、あんちゃんたちに守られて、こういう人生を生かしてもらってきたのです」。

※相田みつを『三人分』より~「三人分の力で頑張れば どんな苦しみにも耐えられるはずだ 三人分の力でふんばれば どんなに険しい坂道でも 越えられるはずだ 三人分の力を合わせれば どんなに激しい波風でも 何とか乗り切れるはずだ そして 三人分の力を合わせれば 少なくとも 人並みぐらいの仕事は できるはずだ たとえ私の力は弱くとも…」「三人分とは 一人はもちろんこの自分 気の小さい 力の弱い だらしのない 私のこと あとの二人は 戦争で死んだ二人の兄たちのこと 豊かな才能と体力に恵まれながら 戦争のために 若くして死んで行った 二人のあんちゃんのこと 学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の花すらさかすことなく 青春の固い蕾(つぼみ)のままで死んでいった 二人のあんちゃんのことです わたしの仕事は いつもこの二人のあんちゃんといっしょ だからわたしの仕事は 三人で一ツです」。

 

相田みつを美術館  03-6212-3200    http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/aida-m.html

戦時の中学には必須科目に軍事教練があり、相田の通う学校には教官として軍から少佐が直接派遣されていた。前任者のときに、相田から筆を借りた友人たちが、その筆を使って日の丸に映画女優の名前を書いた事件が起き、朝礼で犯人探しが行われた。友人たちはシラをきり黙り込んだが、相田は筆を貸した責任を感じ名乗りをあげた為、「アカ」として教練不合格になっていた。相田は新しい教官から、兵器庫の屋根を傷つけたイタズラ犯と決めつけられ、全く無関係なのに体罰を受けた。身に覚えがない相田は罪を認めず、激怒した教官は軍刀を抜いた。
「貴様は上官の俺に反抗するのか!上官に反抗するのは天皇陛下に反抗するのと同じだぞ!」「自分ではありません。殺されても自分ではありません!」。この時の相田は教官と刺し違える覚悟だったという。殺気を感じた教官は刀を納めた。相田は“天皇の名前さえ出せばどんな無理でも通った時代”と振り返る。
「たとえどんな生徒であっても、自分の持っている権力を笠に着て相手の人格を全面的に抹殺するような叱り方は、一生恨みを残すだけで、何の効果もありません。人間を育てる教育者としては最低だと思います。(略)そして、こういう人間の一番始末におえないことは、威張り散らすそのことを“勇ましくてカッコいい”と、本人が思っていることです。戦時中の軍人の中には、そういう単細胞がいっぱいいたのです」。

1942年(18歳)、市内の寺で行われた短歌会にて、生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家のまま禅を学び始める。続けて歌人・山下陸奥に師事し、19歳からは書家を志して岩沢渓石に師事した。20歳で軍に召集されたが出征前に敗戦を迎える。間もなく相田は書の才能を開花させ、1954年(30歳)、書道界で権威ある『毎日書道展』に入選を果たした。同年、相田は足利市で初の個展を開き、千江夫人と結婚する。この後、技巧派の書家として『毎日書道展』に7年連続で入選している。
30代になった相田は、伝統的な書で高評価を得つつも、閉鎖的な書道界に違和感を持つようになり、シンプルで短い「詩」をぬくもりのある易しい字体の「書」と融合させた独特の作風を完成させた。
相田は書道教室を開いていたが、妻と2人の子を抱えて生活費が足りず、“ろうけつ染め”を学んで風呂敷や暖簾を制作したり、地元商店から包装紙デザインの注文をとるなどしてギリギリの生活を送っていた。「私は、誰とも競争しない生き方をしたかった。私の学んだ禅の教えは、勝ち負け、損得を越えた世界を生きることにあったからだ」「不思議なもので真剣に歩き続けていると、いつかは仕事をくれる人にめぐり逢える。世の中はそういうもんです」。

1960年12月。相田は『私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きてゆく喜びがあるのだ』と書く。男36歳、覚悟の言葉だ。

1974年(50歳)、仏教学者・宗教家の紀野(きの)一義がベストセラー『生きるのが下手な人へ』の中で相田のことを紹介。また1984年(60歳)の初詩集『にんげんだもの』がミリオンセラーとなって相田ブームが起きた。3年後に刊行した第2詩集『おかげさん』(1987)も約25万部のベストセラーとなり、各地での講演も増えた。あるとき講演先で、相田は反物の行商をしていた亡き父を知るお婆さんに「あなたのお父さんは仏さまのような大変いい人でした」と言われた。相田いわく「私は涙が出るほど腹の底から嬉しかった。親の財産というのは、何も遺(のこ)さなくていいけれども、“あんたのお父さんは大変いい人でしたよ”という、その一言が、我が子に残す一番いい財産じゃないかと思うんです。私は、こんな嬉しい言葉を聞いたことがありませんでした」。

2つの詩集が話題になり、長年の苦労が報われたその矢先に悲劇が訪れる。1991年、自転車を避けようとして転倒し足を骨折、さらに脳内出血を起こして12月17日に足利市内の病院で急逝した。享年67。相田は成功後も作品制作に妥協せず、印刷による墨の微妙な色の変化や、印刷位置の小さなズレを理由に、印刷済みの色紙千枚を廃棄したことも。長男・一人との最期の会話では「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」と夢を語っていたという。

他界翌年に自伝的な遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』が出版され、翌々年には遺作集『雨の日には……』が刊行された。没後5周年の1996年、銀座に『相田みつを美術館』が開館(後に丸の内・東京国際フォーラムへ移転)。以降も日本各地で展覧会が催され、『生きていてよかった』(1998)、『じぶんの花を』(2001)と出版が続き、多くの人々から愛され続けている。※2006年時点で作品集とカレンダーは800万部を超えるベストセラーになっている。
『あのときのあの苦しみも あのときのあの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための』(死の前年の詩)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

施設案内東京-531 送水口博物館

2025-06-27 04:53:32 | 施設案内・東京

私の情報は、facebook twitter. を確認ください。「中華街を大切にする人」「ご利用する人」にはご協力をします。質問があれば、コメント欄 or sosamu@ya2.so-net.ne.jp にご連絡ください。

中年叔父さんの散策2 は楽天ブログに今後移行していく予定です。https://plaza.rakuten.co.jp/mituki00/

10年以上のデーターは移行可能なブログを模索しています。それにしてもgooブログひどすぎる。

 

送水口博物館   03-3591-2188

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

施設案内東京-530 大嘗宮

2025-06-26 05:49:05 | 

私の情報は、facebook twitter. を確認ください。「中華街を大切にする人」「ご利用する人」にはご協力をします。質問があれば、コメント欄 or sosamu@ya2.so-net.ne.jp にご連絡ください。

中年叔父さんの散策2 は楽天ブログに今後移行していく予定です。https://plaza.rakuten.co.jp/mituki00/

10年以上のデーターは移行可能なブログを模索しています。それにしてもgooブログひどすぎる。

 

 大嘗宮

 皇居東御苑に作られた大嘗祭(だいじょうさい)の舞台である大嘗宮(だいじょうきゅう)の一般参観が11月21日に始まった。大嘗宮の公開は、11月21日から12月8日の18日間。大嘗宮は大嘗祭のために作られたもので、一般参観が終わった後に取り壊される。
また、11月30日から12月8日の9日間は、皇居乾通りも公開される。
宮内庁の担当者によると、例年この時期に行われる皇居乾通りの一般公開は、紅葉が美しく人気だという。皇居乾通りも見るならば、乾通りの一般参観口から入り、途中の西桔橋を渡り東御苑側に抜ける道を通れば、大嘗宮も参観できる。乾通りを最後まで通り抜けると、大嘗宮は見られないので注意したい。

■公開日程
大嘗宮公開 11月21日(木)から12月8日(日)午前9時から午後4時
皇居乾通り公開 11月30日(土)から12月8日(日)午前9時から午後3時30分
■大嘗祭とは
大嘗祭は、毎年11月にある五穀豊穣や国家安寧を祈る「新嘗祭(にいなめさい)」の中でも、即位後初めて行う儀式をいう。皇位継承に伴い一代に一度だけあり、重要な儀式だった。

14日夜から15日未明にかけて行われた「大嘗宮の儀」は、天皇陛下の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭」の行事の中核の一つで「天皇陛下が即位後初めて、新穀を皇祖・天神地祇に供え、自らも召し上がり、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを感謝し祈念する」(宮内庁HP)ものだ。

大嘗祭の儀式は、平安時代から基本的に変わっておらず、今回もこれまでの伝統が踏襲されている。そのため、神道に基づく宗教的儀式として、政教分離をめぐり議論がある。

これを受け、政府は、国事行為ではなく皇室行事とし、費用を皇室の公的予算に当たる宮廷費から支出することにした。

一方、秋篠宮さまは、2018年11月の会見で「宗教色が強く国費で賄うことが適当かどうか」とし、「内廷費」から支出されるべきだという姿勢をとられている。

 

大嘗宮

大嘗祭は新天皇が即位後初めて国の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る最も重要とされる宮中祭祀(さいし)。大嘗宮は7月末に建設が始まり、約3カ月かけて、このほど完成した。

大嘗宮は大小30余りの建物で構成。宮内庁は経費を抑えるため、平成時と比べて敷地面積を約2割減の約6500平方メートルとした。中心儀式「大嘗宮の儀」が行われる悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)などの社殿は木造で、経費を抑えるため、かやぶきだった前回と異なり板ぶきを採用した。参列者が儀式を見守る幄舎(あくしゃ)も縮小した。

大嘗宮の儀は14日夕から15日未明にかけて営まれ、天皇、皇后両陛下はこれまでリハーサルに臨まれてきた。

 

20191203 東京南 見学・紅葉
東京都千代田区丸の内
(大嘗祭)大嘗宮 ①2
  大嘗祭を行う祭祀の場所を大嘗宮という。これは大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼されてきたが、令和の大嘗祭から初めて資材が再利用されることになった。
 古来、造営場所は朝堂院の前庭であった。祭の約10日前に材木と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えで5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に竣工していた。後に大嘗宮の規模は大正、昭和の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるため[21]といった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数カ月かけて造営している。令和の大嘗宮は清水建設が9億5700万円で一般競争入札で落札し受注した。  

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする