飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

主の祈りについて

2012-05-13 21:33:59 | 日本論と宗教論
「主」とは、支配する者の意味です。「主」という言葉は、私の知っている主の祈りの中には出てきませんが、補おうと思ったら、「主の御旨が」と補えないこともありません。しかしその場合でもこの「主」は、イエスでも、文鮮明でも、麻原彰晃でもなく、唯一無二の正義の人格神である「父」のことです(「主の祈り」という表題の「主」はイエスのことですが)。

「御国」とは、この神による支配のことです。神以外の邪な者達のお金や武力、情報操作などによる、人間性に対して抑圧的な支配が蔓延る中、この世にこの唯一正当な神の支配が実現して神以外の邪な者たちの支配が終わり、正しい心の人達が抑圧されなくなりますように、と祈っているのです。

2000年に、日本のカトリック教会は、この「主の祈り」の翻訳を変更しましたが、私は元の文語調のものを好ましく思っています。

「天にまします我らの父よ、願はくは、御名の尊ばれんことを。御国の来らんことを。御旨の天に行はるる如く、地にも行はれんことを。我らの日用の糧を今日我らに与え給へ。我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給へ。我らを試みに引き給はざれ。我らを悪より救い給へ」

地上的な支配によって痛い目にあってきた人達がそれらから解放されて、正しい支配の下に移れますようにというのが、主旨なのです。

解釈によっては、「地上ではどんな支配も正当な支配ではないと主張している」と解釈できるくらい、過激な内容なのですよ。特に当時は、パリサイ派(今で言うとオウム真理教や統一協会、創価学会に当たる)による間違った宗教支配からの解放の祈りと、受け取られたことでしょう。

イエスのこの説教が後の中世ヨーロッパの何処かで行われているものだったとしたら間違いなく、当時のキリスト教会による間違った宗教支配からの解放の祈りと断言したことでしょう。そもそもイエスは、クリスチャンではありませんから。

にも拘らず、これは飽くまでも、支配そのものの否定とはなっていないのです。ジョン=レノンが金融偽ユダヤの意向に沿って『Imagine』で露骨に洗脳しようとしているようなアナーキズムでは、決してありません。また、「我ら」と言っている以上、無責任な現代日本風の個人主義でもありません。

この世の邪な支配に耐えながらも理想の支配の行われる時代の到来を諦めないこと、さらには現時点においても、少なくとも自分と自分の周囲の人々との関係の中ではそれを常に実践し、如何なる抑圧関係も生まないよう心掛けること、こういったことの決意表明にもなっているのです。また、日々の食べ物すら、勿論弛まず労働はするのでしょうが、それでも結局は神から与えられるのでないと手に入らない貴重な物で、自分の所有物として我儘勝手に出来るような代物ではないという、大いに注目すべき反共産主義的かつ反資本主義的思想まで入っていますよ!

私はこれを、多くの人が毛嫌いしているところの「宗教」ではなく、理想的な宗教性の明確な定義と認識して尊重しているのです。

魔術の実在性を理性的に考察してみると

2012-05-13 02:47:14 | 日本論と宗教論
イエスが我々に教えて下さった「主の祈り」は、宗教性の端的な定義になっていて、天的あるいは霊的なもの(理想)の現実化がこの世における人間の使命であることを明確に悟らせてくれます。

「天的あるいは霊的なもの(理想)の現実化」と言えばやや仰々しい感じがするかもしれませんが、日常生活でも比較的頻繁に体験されていることのように、私には感じられます。

例えば、受験生が志望校合格を目指して勉強して行く際には先ず、志望校合格という目標を信頼できる教師の助けを借りながらできるだけ具体的にイメージしなければなりません。次に、そのイメージの下で今を冷徹に観察しつつ弛まず運動する。そして、そのような単純反復運動を通して見えてくる理想と現実の差を踏まえた上で、再び教師の助けを借りながら目標をより具体的なものに育て上げるのである。そうした上でさらにもう一度、そのイメージの下で今を観察しつつ弛まず運動する。・・・こういうことを繰り返して行くのでなければなりません。するとある瞬間に、イメージの具体性が一種の飽和状態に達するわけで、その瞬間に一気に理想が何らかの形で現実化して来る。

これはまさに、理想の現実化つまり宗教性そのものであり、

1)祈り(希望)
2)構想力
3)弛まぬ単純作業
4)自己批判力
5)折れずに進んで行く、子供のような単純なプラス思考
6)教師への信頼
7)生活の規則的な自己管理

などが、その必要な要素となっていることも示しています。この方法論の体系をある領域では「魔術」と呼ぶ場合もある訳です。

このように私達も、個人のレベルで、それぞれの場所で、「天的あるいは霊的なものの現実化」を行うことがあります。人間が人間として価値ある人生を送れるかどうかは、このような意味での自分の仕事をどれだけ忠実に果たせているかにかかっていると言っても過言はありません。

ところで、ここで、ある最も根源的な理想を何千年も何世代も途切れることなく継承しながら圧倒的な体系として編み上げた技能をもってこの魔術を、組織的に秘儀として行っているグループを想像して見てください。

私は、そのようなグループが現在でも世界中に実際にいくつかあって、その中で最も有力で、世界をもう随分前から(不幸なことに邪悪な意図に侵されつつ)支配し続けているグループが、皆さんもよくご存知の悪魔崇拝者グループなのだろう(金融偽ユダヤ)。敵は途轍もなく優秀な魔術師軍団なのだろう。従ってそれに対抗するには、彼ら以上に習熟した魔術を持ってこちらも秘密結社化しないといけない。どうしたらそれが我々のものになるのか?このように考えるに至ったのです。

今のこの論述の中で用いられている用語には、現代人の心に激しい抵抗感や恐怖心が起こるよう、極めて巧妙な魔術が仕掛けられているとも考えます。「宗教は政治の道具で、過去の紛争は全て宗教対立が原因である。宗教団体は、どんなものも必ず腐敗するものだ」という説を私達はよく耳にします。少し詳しく調べれば必ずしもそうなってはいないと確認できるのに、何となくのイメージで何の抵抗もなくそれを、事実として受け入れているのです。魔術は人々の知性にではなくイメージに掛かってくるものだからです。例えばジョンレノンの 『Imagine』 が、それを露骨に行っていると私には感じられます。

でも、今私が皆さんを誘導したように、その束縛を意識的に取り除きつつ冷静に考えてみると、そんな一見突拍子もない発言も極めて現実的に感じられてきますよね?

善なる意志をもった唯一無二の絶対的な霊性の、長大な計画の下での極めて巧妙な潜伏も、上記のような悪魔崇拝者グループの存在がある程度認知されるようになった以上、そんなに唐突な話ではなくなっていると言って良いだろうと、私は考えるのです。

しかも、いろいろと調べていると、驚いたことにそれが、我が日本国に我が日本国の根幹として潜伏しているにちがいないということになるではないですか!