「主」とは、支配する者の意味です。「主」という言葉は、私の知っている主の祈りの中には出てきませんが、補おうと思ったら、「主の御旨が」と補えないこともありません。しかしその場合でもこの「主」は、イエスでも、文鮮明でも、麻原彰晃でもなく、唯一無二の正義の人格神である「父」のことです(「主の祈り」という表題の「主」はイエスのことですが)。
「御国」とは、この神による支配のことです。神以外の邪な者達のお金や武力、情報操作などによる、人間性に対して抑圧的な支配が蔓延る中、この世にこの唯一正当な神の支配が実現して神以外の邪な者たちの支配が終わり、正しい心の人達が抑圧されなくなりますように、と祈っているのです。
2000年に、日本のカトリック教会は、この「主の祈り」の翻訳を変更しましたが、私は元の文語調のものを好ましく思っています。
「天にまします我らの父よ、願はくは、御名の尊ばれんことを。御国の来らんことを。御旨の天に行はるる如く、地にも行はれんことを。我らの日用の糧を今日我らに与え給へ。我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給へ。我らを試みに引き給はざれ。我らを悪より救い給へ」
地上的な支配によって痛い目にあってきた人達がそれらから解放されて、正しい支配の下に移れますようにというのが、主旨なのです。
解釈によっては、「地上ではどんな支配も正当な支配ではないと主張している」と解釈できるくらい、過激な内容なのですよ。特に当時は、パリサイ派(今で言うとオウム真理教や統一協会、創価学会に当たる)による間違った宗教支配からの解放の祈りと、受け取られたことでしょう。
イエスのこの説教が後の中世ヨーロッパの何処かで行われているものだったとしたら間違いなく、当時のキリスト教会による間違った宗教支配からの解放の祈りと断言したことでしょう。そもそもイエスは、クリスチャンではありませんから。
にも拘らず、これは飽くまでも、支配そのものの否定とはなっていないのです。ジョン=レノンが金融偽ユダヤの意向に沿って『Imagine』で露骨に洗脳しようとしているようなアナーキズムでは、決してありません。また、「我ら」と言っている以上、無責任な現代日本風の個人主義でもありません。
この世の邪な支配に耐えながらも理想の支配の行われる時代の到来を諦めないこと、さらには現時点においても、少なくとも自分と自分の周囲の人々との関係の中ではそれを常に実践し、如何なる抑圧関係も生まないよう心掛けること、こういったことの決意表明にもなっているのです。また、日々の食べ物すら、勿論弛まず労働はするのでしょうが、それでも結局は神から与えられるのでないと手に入らない貴重な物で、自分の所有物として我儘勝手に出来るような代物ではないという、大いに注目すべき反共産主義的かつ反資本主義的思想まで入っていますよ!
私はこれを、多くの人が毛嫌いしているところの「宗教」ではなく、理想的な宗教性の明確な定義と認識して尊重しているのです。
「御国」とは、この神による支配のことです。神以外の邪な者達のお金や武力、情報操作などによる、人間性に対して抑圧的な支配が蔓延る中、この世にこの唯一正当な神の支配が実現して神以外の邪な者たちの支配が終わり、正しい心の人達が抑圧されなくなりますように、と祈っているのです。
2000年に、日本のカトリック教会は、この「主の祈り」の翻訳を変更しましたが、私は元の文語調のものを好ましく思っています。
「天にまします我らの父よ、願はくは、御名の尊ばれんことを。御国の来らんことを。御旨の天に行はるる如く、地にも行はれんことを。我らの日用の糧を今日我らに与え給へ。我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給へ。我らを試みに引き給はざれ。我らを悪より救い給へ」
地上的な支配によって痛い目にあってきた人達がそれらから解放されて、正しい支配の下に移れますようにというのが、主旨なのです。
解釈によっては、「地上ではどんな支配も正当な支配ではないと主張している」と解釈できるくらい、過激な内容なのですよ。特に当時は、パリサイ派(今で言うとオウム真理教や統一協会、創価学会に当たる)による間違った宗教支配からの解放の祈りと、受け取られたことでしょう。
イエスのこの説教が後の中世ヨーロッパの何処かで行われているものだったとしたら間違いなく、当時のキリスト教会による間違った宗教支配からの解放の祈りと断言したことでしょう。そもそもイエスは、クリスチャンではありませんから。
にも拘らず、これは飽くまでも、支配そのものの否定とはなっていないのです。ジョン=レノンが金融偽ユダヤの意向に沿って『Imagine』で露骨に洗脳しようとしているようなアナーキズムでは、決してありません。また、「我ら」と言っている以上、無責任な現代日本風の個人主義でもありません。
この世の邪な支配に耐えながらも理想の支配の行われる時代の到来を諦めないこと、さらには現時点においても、少なくとも自分と自分の周囲の人々との関係の中ではそれを常に実践し、如何なる抑圧関係も生まないよう心掛けること、こういったことの決意表明にもなっているのです。また、日々の食べ物すら、勿論弛まず労働はするのでしょうが、それでも結局は神から与えられるのでないと手に入らない貴重な物で、自分の所有物として我儘勝手に出来るような代物ではないという、大いに注目すべき反共産主義的かつ反資本主義的思想まで入っていますよ!
私はこれを、多くの人が毛嫌いしているところの「宗教」ではなく、理想的な宗教性の明確な定義と認識して尊重しているのです。