飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

真我への回帰

2012-05-18 16:38:42 | 日本論と宗教論
コスモさんが次のような非常に重要なインド思想あるいはタロット思想の存在を教えて下さいました。

〈Dominus=主人(生命の本来の調和と秩序を保つ力のことで個人の中にもある)が何処かで入れ替わったこと又は否定されてきたことが支配というもののイメージの変化にもつながったのではないかと私は思います。例えばヨガ(ヨガとは元々宗教用語ではなく「道を外さず人生の目的地へ行く」ことを意味する普通の言葉)の聖典『カタ・ウパニシャッド』では「真我(アートマン、無)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちは諸々の感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼んでいる」と述べられています。タロットの「戦車」でも同様のことが確認できます。ただこのタロットの「戦車」の場合は最古のものと現在のものには違いがあって、最古の「戦車」で描かれているオーナー(車主=真我)が現在の「戦車」には描かれていないのです。これはすなわち、御者がオーナー(すなわち本来の支配者たる真我)から離れてしまっていることを暗示しています。理性である御者が暴走し道に迷ったせいで私たちが現在イメージするような支配が生まれてしまったのだということを暗示していると思うのです〉

ここには極めて重大なことが的確に伝えられていると、私も思います。本来の至高の支配に戻ることが何より大切だというメッセージです。どうしたらそこに戻れるのでしょうか?

ここで私は、福音書のイエスの言葉に次のようなものがあることを想起しました。

「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思い煩い、何を着ようかと、自分の身體のことで思い煩うなんてことはやめなさい。命は食物にまさり、身體は着物にまさるのだから。空の鳥を見るがよい。播くことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それでも天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは彼らよりも遥かにすぐれた者のはずだ。それに、思い煩ったからといって誰に自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか?なぜ着物のことで思い煩うのか?野の花がどうして育っているか考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしないだろう?それなのに、栄華をきわめた時のあのソロモンよりこの花ひとつの方が、装いの美しさでは優っている。今日生えていても明日になると炉に投げ入れられるような、そんな儚い野の草でさえ神はこのように装って下さる。とすれば、あなたがたへのはからいがそれ以上にならないはずがないだろう?ああ、信仰の薄い者たちよ。何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと、思い煩うな。これらのものはみな異邦人が切に求めているものだ。天の父はあなたがたにこれらのものが悉く必要であることをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて、添えて与えられるのだから。明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩う。一日の苦労はその日一日だけで十分だ」

この言葉を初めて耳にしたのは、様々な問題を抱え悩みながら浪人として大学受験の準備をしている時でした。日曜早朝、つけっ放しで寝てしまったラジオから流れてくるこの言葉で目を覚まし、何故だかひどく感動してしまったのが、私が神について考えるようになった最初のきっかけでした。九州の片田舎にいて、ラジオのリクエスト葉書なんてことは知っていたけど、自分には何だか縁遠いことでそんなことするなんて考えられないと感じていたくらいの私が何故か、ラジオから伝えられる住所に、東京なのかどこなのか分別などないまま葉書を送り、小型の福音書を送ってもらったのでした。読み込んだりするはずもなかったのに。・・・その15年後、京都のカトリック教会で洗礼を受ける私がいました。その時、世話役をお願いしたご夫婦にこの話をしたところ、嬉しそうな驚いた顔で「それは、京都のカトリック教会が行っていた活動で、ハヤット神父の下で私達もお手伝いしていたのですよ」とおっしゃるのです。その時の私の気持ちは皆さんにも十分に、ご理解いただけるものと思います。

それはそうと、この言葉では、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、明日のことをひたすら思い煩う自我と、そういったことに思い煩わず、まず神の国と神の義を求め、野に咲く花のように今日一日を精一杯に生きる自我とが、極めて素朴な印象的な対比によって描き出されています。後者の方が本来の自我だ。そこにある支配は思っているよりずっと穏やかで優しいものだよ。だからそこに回帰しなさい。お手本は野に咲く花だよ。こう言っているわけです。

この言葉には、19歳の右も左も分からない、キリスト教なんて信じている人は周りにひとりも存在していなくて「以後よく広まる」くらいしか知らず、弱々しい雰囲気をややバカにしてすらいた、そんな田舎の悩める若者の心にも、その奥底に届いたのです。この言葉にはそれ程の力がある。これは紛れもない事実です。