飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

暴いたところで何がどうなる?

2012-05-28 07:29:39 | 日本論と宗教論
妄想と静観。時代の観察者になる。期待はしない。極力冷めた目で極力深く今を理解する。ただ、可能性の領域を無制限に運動して惓むことなく建設と破壊を繰り返して行く。そんな貪欲な想像力さえあればいい。

インターネットのお陰で、個人として、世界全体のより深くより広い、より詳細で正確なイメージを所有し、マスコミの邪な情報操作を遠ざけることができるようになった。インターネットにも確かに意見の対立や意図的情報撹乱が見受けられる。しかし、個人的な期待など持ち込まず極力冷めた目で吟味してさえいたら、そんなもの取り除くのにそれ程の苦労はない。真実とは本来そういうものだったのだ。情報操作のエキスパートによるあまりにも巧妙すぎる遮断さえなければ、自ずから立ち現れてくるものだった。インターネット空間で嘘などそう簡単につき通せはしない。

しかし問題は、その後だ。真実を知ってしまった以上、現実の拘束に伴う苦痛を覆い隠せなくなってしまった。観念の世界ではとっくの昔に壊してしまったはずの虚構と、現実の世界ではまだ付き合っていかざるをえない。偽物と分かっていながら、しかも決して安くはない代償を支払いつつ飲み続けるなんて、それに勝る苦痛はそう滅多にあるものではない。自然な嘔吐感は致し方がないからだ。何とかこっそり吐き出そうとするが、そうなるとそれ以外の物がなくなり、孤立して生きていけなくなってしまう気がする。だから、不味くても、吐き気がしても、無理矢理押し込む。邪悪な虚構だがもうそこに暮らしてしまっているし、これまでもそれでまあまあ何とかやって来られたのだ。それを壊して別の虚構なき生活をもう一度みんなで一からなんて、立派だけど、何となく危険で面倒臭そうだ。誰かがやり始めて流れがそっちに動いて行ったら、自分もそうするかもしれないけど。それまでは我慢我慢。卑怯者でごめんなさい。

多くの人のメンタリティは今、こうなっていないでしょうか?

私は、知った以上は、自分の生き方を昨日までと同じにしておくのは嫌です。即変更します。でないと、今だけでなく未来もなくなってしまう。

死んだら死んだ時。死んだからと言って自分の本質が死ぬわけではないし、死なないよう卑屈になったりしても死ぬ時は死ぬ。霊魂とは、あんなおどろおどろしいものではなく要するに、こんな簡単なことだったのだ。肉体の死は確かに怖いが、怖がろうと怖がるまいと死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きるのだ。

何れにしても卑屈になりたくはない。大切なポイントさえちゃんと押さえていたら、後はなるようにしかならないさあ。そんな感じで開き直ったら、清々しいし、何だか分からないけどかえって上手く行ったりするものだよ。

孤立してさみしいし、恥をかくかもしれない?それも実は、自分次第。面倒臭がらずちゃんとまともに動いて行きさえすれば、豊かさを失って恥ずかしい思いをするなんて、本当は滅多なことでは起こらないことなのだ。

人による?その通り。だから、強い人は弱い人を慈しみ、弱い人はその慈しみ深い強い人を敬うということだけは必要になる。義人を敬う心さえあれば、ちゃんとその人が慈しんでくれますよ。他人から助けてもらっても恥ではありませんよ。

人間はそこまで信用できない?悲惨な歴史がある?またそこに行くんですか?そんなもの、みんなを恐怖で縛っておくための虚構だったって、あれ程しっかり理解したやん!

ある特殊な信仰が必要ですよ。そして、私たちが「種」になるのです。

新しい認識と感情を天からいただいたものとして敬い、自分の領域内に、特に自分の子供に、きちんと反映させましょう。現実の行動を、認識や感情とできるだけ矛盾させないようにしましょう。自分の周囲に自分の言動を通して「よい」影響を与え続けるよう心掛けましょう。認識と感情、行動を共有する横の繋がりや縦の繋がりを、たとえ底辺であっても、微弱であっても、自然な形で広げて行きましょう。あなたの場所ではあなたにしかそれはできないのです。小沢氏や橋本氏に今すぐ自然な形で影響を与えられる人だったら、今この瞬間にそうなっていないのを恥じましょう。やってみて自然じゃなく無理が生じるなら、その認識や感情に間違いがあると自覚し、ちゃんと責任を取りましょう。その上で、その認識、感情、行動を、全部やめるのではなく変更して、惓むことなくまた動き続けましょう。

そのような生き方を社会の片隅で同じように行っている、そんな無数の人を、そしてその数がどんどん増えて行っている今を、期待と共に強くイメージしましょう。幸運にもそんな人に実際に出会えたら、大喜びして一生の友となり、天に感謝して、絶対に裏切らないよう誓いましょう。会社の上司ではなく、そのような友人への忠誠心をこそ、最優先させましょう。会社の上司がそのような友人のひとりとして目の前に現れたら、絶対的な忠誠心を持って敬い待遇して差し上げましょう。

個人には、奥の院の秘密結社が何千年にも渡って世界に反映し続けて来た力と比べても全く遜色のない、途轍もない力が秘められていて、それを活かすやり方も厳然と存在している。人間は努力して初めて人間になる。逆に人間の力を信じず、努力を放棄したら、人間でなくなり、単なる無駄なゴミみたいな存在に落ちてしまい、腐臭を発し始める。これが人間なのだ。こんな認識をちゃんと持ちましょう。

以上のような条件を満たし続ければ必ず、ある瞬間に社会が一気に変わる。新しい認識や感情がひとつの勢力になって勃興する時が必ず来る。場合によっては今すぐ、テレビの中の小沢氏にすら、その変化が反映される。

・・・こんな信仰ですよ。これすら「宗教」として敬遠しますか?

宗教性に照らして、既存の「宗教」は多くの場合堕落して見えると言わざるを得ないでしょう。だからと言って、人間と天との繋がり、つまり宗教性そのものまで否定するのは、理屈に合わない以上、やめて置いた方がいいですよ。

「君がいくらそう感じてあの人達を救おうとした所で、これは会社の規約だし、上層部の意向だから、どうしようもないよ。確かに君の言うことはもっともだし、僕もできればそうして上げたい。でも仕方がないだろ?そんなことに拘って上司に楯突いていると、会社を辞めなくちゃいけなくなるよ。お子さんも今度大学だろ?家族が路頭に迷うよ。大変だぞ」

この中には現代日本風の「宗教」がありますよね?こんな時にあなたと天との繋がりの証である認識と感情を捨てずにどう立ち回れるのか?ここが大切なところなのです。

人々に様々な不幸をもたらしてきた事実がある、あるいはそう刷り込まれた「宗教」を否定している内に、人間に不可欠な宗教性=人間性まで無意識で否定するよう誘導されてしまう。その結果、「宗教」に見えない「宗教」に拘束され、嫌な思いをして生きていかなくてはならなくなるのです。

例えば、無罪判決後にも必死の形相で小沢批判をゴリ押しする辛坊治郎の顔には、このような類の「宗教」が透けて見えますよね?

組織にあっても、個人の天との繋がりの証たる善意は阻害すべきでなく、規約適用を云々する以前の現場では何とかできるだけそれを活かそうとする。これが、我々の知っている「日本人」だったはずなのに。

我々が今すぐ「種」になるべきです。