飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

宗教嫌いの意外に単純な理由のひとつ

2012-05-17 02:04:04 | 日本論と宗教論
言葉に対する誤解や無知が余計な混乱をもたらすこと、特に外国語の翻訳の際に紛れ込む誤解や無知においてはそれが激しくなること、これらについては誰もが、そう言われればそうだと当然のように感じることでしょう。ところがこれは、実際には、その感覚を遥かに上回る程度にまで侵食してしまっている、意外に深刻な事態なのです。言霊とはよく言ったものです。

例えば、I have a pen. の日本語翻訳について。こんなの中学校で一番最初に習ったよ。Iが主語で「私は」、haveが他動詞で「持っている」、a penが目的語で「ペンをひとつ(一本のペンを)」、全体として「私はペンを一本持っている」と訳すのだろ?何を今更?・・・大半の人はこうおっしゃることでしょう。しかし、これは文法的に完全な間違いなのです。実際は「ここにペンが一本ある」と訳すのでなければならない。have は他動詞じゃないから受動態にも進行形にもならないのです(詳細は私の最初の著作になる予定の『あなたの知らない英語の世界』を、もし出版されることがあったら、お読みになって下さい)。

「象は鼻が長い」の主語はどの部分でしょうか?天下の『広辞苑』の「は」の項目には、主語は「象は」であると堂々と書き込まれています。また『象は鼻が長い』という書名の書物では(筆者名は忘れた)、「このように主語がふたつもある言語は珍しい。この点でも日本語は他のどの言語よりも優れている」とすら書かれています。しかし残念ながら、それは違います。この文は「象(について言え)ば鼻が長い(と言える)」の略で、主語はただひとつ「鼻が」だけというのが正しい解釈になります。副助詞と称される「は」の実態は、接続助詞「ば」の変形でしかなかったのです。

「神」という翻訳語も、それを使う時に、カトリックの神父も学者仲間も、やや苦笑気味に使うのは事実です。「主」「父」「ありてあるもの(ヤハウェ)」「エル」「ヤー」など、呼称に相当な気を使うのは、ある特定の本来の場所に行けば当たり前のことなのです。

神道では、「御霊」と「御霊分け」、「霊と魂」の違いが理解出来なければならないのですよね?

因みに、史上最低の誤訳は、福沢諭吉君の「人民の人民による人民のための政治」でしょう。民主主義を根本から誤解させる翻訳になってしまっています。諭吉君はなぜ「統治システム」と訳さなかったのでしょう?「統治」がそんなに嫌いだったのでしょうか?

ある人が紹介してくださった『Zeit Geist』という名前のビデオの1~3(YouTubeで見ることができる反キリスト教プロパガンダのビデオです)でも、『黙示録』の「この世が終わる」は「この時代が終わる」の誤訳といったことが取り上げられていました。

因みに、「世」とか「世界」のことを空間的に捉えて「この世が終わる」とはこの地球や宇宙がなくなってしまうことを表すのだなどと考えること自体が実は、間違いなのです。「世」とか「世界」の根本概念は、「結び付き」「ネットワーク」です。従って「この世が終わる」とは、「今存在している万物間の、ひいては人と人の(社会の)結びつきのあり方が一旦解ける」という意味でしかないのです。だから間違っているのは、間違いを指摘しているつもりのこのビデオの方だったわけです。要するに、こんな基本的なことにすら、誤解がベッタリと張り付いているのです。

「宗教は嫌い」の「宗教」も、その典型でしょう。人は自分の狭い体験でしか物事を見れなくなってしまっているのです。嫌いにならざるを得ないような「宗教」しか知らないのでしょう。それにしては、嫌い方が激しくなりすぎるようです。何故でしょう?

しかし、これらは、粘り強く訂正しながら進んで行くしか対処方法のない、この世の日常茶飯事です。そんなことでいちいち、目くじらは立てないでおきましょう。

ところで私は、主の祈りを知っている以上自分の人生が奇跡の連続以外の何物でもありませんから、目の前で「奇跡的」な自然現象が起きたところで、心は全く動きません。

ウエサク祭に参加した時、確かにそのようなことが起き、群衆が一斉にどよめくということがありましたが、あの日本人に集団でこのような反応をする部分が残っているんだなあという強い感慨を抱いただけで、自分はその只中で、いつものように、主の祈りを唱えただけでした。

ウエサク祭に出て「確信した」と言ったのは、その発言の際はやや説明不足でしたが、寺の建物の地下の奥の方に行って、膨大な数の信者達の「遺髪」を見た時でした。説明によるとある種の宗教的信念からそのようなことが行われるということでしたが、それらを詳しく見てみると、その他のいくつかの姓に並んで膨大な数の秦姓が並んでいるのです。「奇跡」に一斉に反応する群衆の姿と鞍馬の信仰に一心に打ち込む無数の秦さん達の痕跡。これが私に、日本の隠れた生きた何かを確信させてくれたのでした。

彼らは、魂を捨て私利私欲に走っただけの、外国勢力の単なる傀儡に堕してしまった所謂ゾンビなのでしょうか?私には、脈々と生き続ける日本の根幹のひとつに感じられました。いつかはきっと、立ち上がって出てくるはずです。あの群衆と共に。

ところで宗教課税は、宗教団体のある種のランク付けを行った上で、課税率を0.1パーセントあたりに定めて、実施さるべきものと私は考えます。「坊主金払え」は、あまり好ましい表現ではないですよ。謙虚に、謙虚に。