飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「科学的」は言うほど偉くない!

2012-05-29 13:58:52 | 日本論と宗教論
根拠には2種類あります。

ひとつは事実。見えた物の信憑性を通常は誰も問題にしないものです。これが問題になるのは、その人が疲れているとか、狂っているとか、思想が偏っているとか、特別な場合に限られます。人間存在の奥行きが信じられていない現代日本のような社会において物事の信憑性の根拠がこの事実すなわち見えるものだけに限られると、人間の人間らしさが反映さるべき領域つまり学が、全て滅びてしまうことになります。薄っぺらな現代日本風の「個人」の体験の中に全てが閉じ込められ、人と人との時空をも超えた本当の意味での関わりが、例えば歴史が、生きたものとしては完全に消失してしまうことになるわけです。

もうひとつは、様々な証言の分析、比較対照、取捨選択、結合における、広さや深さ、整合性です。これを学と言う訳ですが、その中には、広さと深さを一旦犠牲にして対象を限定し、日常言語による表現を極力抑制しながら実験観察空間における計測と数式(内容を犠牲にして形式的な厳密さを極限まで追求した結果生まれた記号体系)による表現を前面に出して整合性の判定の客観化つまり間化を推し進めた分野があります。それが通常自然科学あるいは科学と呼ばれるもので、これ自体はある文脈においては注目すべき側面を持つものではありますが、近現代に入ると他のどの様式の学よりも権威あるものと見做されてしまい、他の様式の学の審査を行うべき学の中の学として扱われるようになってきてしまう訳です。

この流れを一言で表現すると、真理判定における人間不信ということになるでしょう。すなわち、人間の退化というものが背景にあって初めて生じて来た流れなのです。要するに、人間の「何となく」は全て信じられないということです。

あるいは逆に、各国に必ず何人かは存在し、各国を天に繋がる国として支えて行くことを自らの使命と自覚する真人あるいは超人、義人の権威を意図的に貶め、各国を天に繋がらない普通の人間の群れに変えて乗っ取りやすくするには便利な思想となる訳です。従って、市民革命や民主化の過程においてはいつも、この流れが意図的に宣伝推進される訳です。日本の明治期には福沢諭吉を初めとする人々がそのプロパガンダの役割を担っていたようです。

歴史というのは本来、真人あるいは超人、義人が悪人と戦いながら国を治めてきたことの真人あるいは超人、義人による証言の記録でなければならないのです。国を統治する資格がないのに、どこかの国を乗っ取り、その国の人間を家畜化しようとする時、その者達が必ず暗殺や歴史の捏造に奔走するというのは、その目的からして十分に頷ける話でしょう。優れた人間や優れた人間を生み出す仕組みを消さないといけないからです。例えば大国主の国譲りの意味はその辺にあるのです。慕うべき大国主像があっては第二の大国主が出て来かねないという訳です。このような歴史の本来の意味から考えると、歴史は本質的にちゃんとした学問ではありえても、科学的たりえはしないことになります。歴史事象はどれも個別的であり、事柄そのものの整合性だけではなく、それ以上に、それを誰がどのような目的でどのような場を設定してどれ程の真剣さで述べているか、それを聞き手がどんな感情と共に聞いているか、の方に重点があるはずだからです。つまり、人間には本来どんな人にも、聞いている話の信憑性を瞬時に判定して「それはよく分かる」とか「それはちょっと」などと色分けしていく能力が備わっているということです。人間存在の、現代人がもう忘却してしまった何処かの部分(エーテル体やアストラル体)に、時空全体との繋がりが許される部分が含まれているということです。

以上のことを念頭において次のエピソードの意味を考えてみてください。

ある陰謀論をテーマにするテレビ番組に、珍しくベンジャミン=フルフォード氏が出演していました。その番組ではベンジャミン=フルフォード氏が、インターネットや著作上で展開していて多くの支持者を獲得している、よく知られた自説を一般向けに説明するということが行われていました。それを聴衆のやや軽めな黄色い驚き声でひとしきり遇した後、番組のまとめの時になって青山という腐れきったくだらない「ジャーナリスト」が出て来て、ベンジャミン=フルフォード氏に向かって「科学的じゃない。ジャーナリストじゃない!立ち去れ!」と絶叫するのです。それに対してベンジャミン=フルフォード氏が顔色ひとつ変えず無言を貫いていたのが印象的でした。

この番組が何のために制作放送されたのか、ベンジャミン=フルフォード氏がどんな出演条件に縛られていたのか、透けて見えるようですが、それはさておき、この青山の絶叫の内容を見てください。

陰謀論を含むジャーナリズムは本来一種の歴史ですが、それに対する「科学的」の典型的な意図的誤用が見て取れるではないですか。

ある説に触れた時にジャーナリストとして長年培ってきた勘と人脈に依拠して裏付けを取るというのがその意味として解説されていましたが、それは本来「科学的」とは言わないのです。「科学的」は歴史の価値判断の基準とはなりません。プロのジャーナリストであっても、あるいは逆にプロのジャーナリストであるが故に、受け取り手の判定の前には常に真摯でなければならないはずです。こいつは嘘をついていると思われたらお終いだということです。この場合の論拠はそこにあるのです。

彼には常に裏社会の飼い犬ジャーナリストとの評価が消えません。思い起こせば、「911自作自演説について私は、ジャーナリストとしてあり得ないと、きっぱり言い切れます」とテレビで公言して多くの心ある人間の苦笑を誘ったのが、その最初でした。心ある人間なら誰も彼のことを信頼できる人間とは思っていないのです。彼自身もそう思ってないこと、生きるために開き直ってタレントに成り下がっていること、これらは顔にちゃんと書いてあります。そんな彼が「科学的」の名の下に逃げ込むのは、納得できることではありますが。

情報をコントロールしようとしている人達は現在もこの日本で、まさに我々の目の前で、意図的に変質させた「科学的」の僭称の下に、本来の歴史の正統性を必死に排除しようとしているのです。

こんなものに皆さんは最早、飛びつきはしないですよね?

これは余談ですが、奇兵隊さんの言う通り、初心者君、表現をちゃんと選び給え。

⇨マヨの本音 「生兵法、けがの元?」のコメント欄
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