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近代人の典型的な悩み――パスカルのケース

2005年09月04日 | メンタル・ヘルス

 もう1回だけ、やや暗い、でもたぶんみんな非常に共感できる話を。

 みなさんもよくご存知のブレーズ・パスカルは、近代初期の人で(1623~1662)、近代人としての典型的な悩みをつきつめたことで知られています(参考書:三木清『パスカルにおける人間の研究』岩波文庫)。

 彼は、まずすぐれた科学者として出発し優れた業績をあげましたが(「パスカルの原理」)、やがて近代の科学合理主義のマイナス面を深く見つめた思想家となり、結局、自らを救うためにカトリックの熱烈な修道者になっていきました。

 有名な『パンセ』は、前半では近代人が必ず陥る「空しさ」とそこからの逃避としての「気ばらし」について述べ、後半では空しさからの救いはキリスト教信仰しかないことを論証しようとしています。

 後半は現代人の私たちにはあまり説得力がないように思いますが、前半はまるで自分のことをいわれているかのようにリアリティがあります。

 これまでお話ししてきたことの例証として、少し引用してみようと思います(『パンセ』田辺保訳、角川文庫版、読みやすくするために原文にない改行を加えました)。

「この劇(人生のこと――筆者注)は、ほかの部分ではどんなに美しくても、最後の場面は血みどろなのだ。頭から土をかぶせられて、それでもう永遠に一巻の終りである。」(断章210)

「流転――自分の所有するすべてのものが流れ去っていくと感じるのは、なんとおそろしいことであろうか。」(断章212)

 近代的・物質還元主義的な科学で考えると、確かに人間は死んだら「無になる」、「土になる」、「もう永遠に一巻の終り」ということにならざるをえません。

「こんな状態を想像してみるといい。
 大ぜいの人たちが鎖につながれている。その人たちはみな、死刑の宣告をうけた人たちだ。
 その中の何人かが、毎日のようにみんなの見ている前で首を切られ、残った者は、そういう仲間の身の上がやがて自分の身の上になるのを知って、希望もなく・悲しそうに顔と顔とを見合わせながら、自分の順番が来るのを待っている。
 人間の条件を絵に描いてみればこうなる。」(断章199)

 「死んだらすべてが終り」、そして死はかならずすべての人にやってくる。「人間の条件を絵に描いてみればこうなる」わけです。

 しかし、近代合理主義的な面もある思想家として、パスカルはこう考えて強がってもみます(おそらくパスカルのもっとも知られた言葉ですが、パスカルのポイントではありません)。

「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。
しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬことと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことは何も知らない。
 だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。まさにここから、わたしたちは立ち上がらなければならないのであって、空間や時間からではない。わたしたちには、それらをみたすことはできないのだから。だから、正しく考えるようにつとめようではないか。」(断章347)

 けれどもどんな正しく考えてみても、近代のばらばらコスモロジーによっては、人生に関する根本的に重要な問い――Big Questions――の答えを知ることができません。

「だれが、わたしをこの世界に置いたのかを、わたしは知らない。この世界がどんなものであるか、わたしがなにものであるのかも、知っていない。わたしは、すべての事柄についておそろしいような無知の状態にいる。

……わたしには、自分を閉じこめているこの宇宙のぞっとさせるような空間が見えてくる。自分がこの広大な広がりのほんの片隅につながれた存在であることがわかってくる。

 しかも、このわたしは、なぜ自分があちらでなく、こちらに置かれているのか、知っていない。

 また、自分に与えられている生きるためのこのわずかなわずかな時間が、わたしに先行するすべての永遠の時と、わたし後にくるすべての永遠の時の中で、他の地点に定められず、この地点に定められたのはなぜかも知らない。

 どちらを見ても、わたしの目に映ってくるのはただはてしれない無限ばかりである。その無限がわたしを一原子のように取りかこみ、一瞬ののちにはたちまち消え去って戻ることのない影のように取り包んでいる。

 わたしがよく知っていることといえば、自分がやがて死ななければならないということだけである。しかも、どうしても避けることのできないこの死を、わたしはいちばん知らないのである。

 わたしは、自分がどこから来たのかを知らないのと同様に、自分はどこに行くのかも知らない。

 わたしはただ、自分がこの世を離れたら、未来永劫に虚無の中におちこむか、それとも怒りの神のみ手の中におちこむかどちらかであることだけを知っている。

 しかし、この二つの条件のうちどちらの方に、わたしが永遠にふりあてられているはずなのかを、わたしは知らない。これが、わたしの状態なのだ。弱さと不確実さにみちたわたしの状態なのだ。(後略)」(断章194より)

 あえていえば、「すべては偶然である」ということにしかなりません。

 こうした人間のおそろしいまでの無知に気づいて、宇宙のことを考えると、以下のような感情が湧いてきます。

「この果てしない空間の永遠の沈黙が、わたしにはおそろしい。」(断章206)

 近代人がばらばらコスモロジーを元にして人生を考えると、心の底からおそれや空しさが湧き出してきます。

 先にご紹介した女子学生の言葉でいえば、「考えれば考えるほど、死にたくなる」のです。

 そしてそこで彼女の友人のように、「バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるのはやめたほうがいい」という手を考え出すことになります。

「気ばらし――人間は、死も惨めさも無知も癒すことができなかったので、幸福になるために、こういうことは考えずにいようと思いついたのだった。」(断章168)

「……こうした惨めさを見ながらも、人間は幸福になりたいと思う。幸福になりたいとのほかは何も思わない。また、そう思わずにはいられない。けれど、それにはどうしたらいいのだろう。その望みをかなえるためには、さしずめ、自分が不死の者にでもならなければならないのであろう。だが、そうなることはできなかったので、人間は、こういう惨めなことはもう考えずにおこうと思いついたのだった。」(断章169)

「……この弱く、死すべき人間の条件のことは、わたしたちが、そのことをつきつめて考えてみると、もう何ものによってもなぐさめられないほどに惨めであわれなものである。……だから、人間にとってただ一つの幸福は自分の条件を考えることから、気をそらすということにつきるのだ。何かに熱中してそんなことを考えずにすますか、目あたらしい・快い情念の中にいつもおぼれているか、賭けごとをしたり、猟をしたり、おもしろい芝居でもみたり、要するに、いわゆる「気ばらし」をして、気をまぎらすことにつきるのだ。」(断章139)

 しかし多くの学生が報告してくれます。「みんなと一緒にいて騒いでいる時はいいんですが、下宿に帰って一人になると、また空しくなって死にたくなるんです」と。

「退屈――情熱もなく、仕事もなく、楽しみもなく、精神の集中もなく、完全な休息状態にあるほど、人間にとって耐えられないことはない。その時、人間は、自分の虚無、自分の見捨てられたさま、自分の足りなさ、自分の頼りなさ、自分の無力、自分の空虚をひしと感じる。たちまち、人間のたましいの奥底から、退屈、憂い、悲しみ、悩み、怨み、絶望が湧き出してくるであろう。」(断章131)

 ニヒリズムとそれからの逃避としての快楽主義は、17世紀の哲学者パスカルから21世紀の若者に到るまで、一見、「それしかない」と思えるような、近代主義者が迷い込む迷路、しかもおそらく行き止まりの迷路であるようです。

 では、この迷路からは抜け出せないのか? 抜け出せる! というのが私の考えです。

 暗い話が続きましたが、次回からようやく明るい話になっていく予定です。ご期待ください。

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近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2

2005年09月03日 | メンタル・ヘルス

 近代科学の根本的な問題は、「主客分離」と「分析-総合」という方法があまりにも切れ味がよく、かつ便利がよかったので、ついついその方法によって見えてくる世界の姿が、世界の現実そのものだと取り違えたところにある、というのが私の考えです。

 よく考えて見ましょう。

 何かを観察・研究する場合、自分の主観をいったん脇に置くことはとても大切で、有効・妥当です。

 しかし、事実を考えてみると、観察・研究している時にも、実は対象・客体と研究者・主体にはつながりがあります。

 分析で「生きた現実」を捉え切ることはできません。

 例えば私たちの世代が中高生の頃、やらされたカエルの解剖の場面を取ってみましょう。

 麻酔をかけられたカエルは、解剖という研究の対象として、いろいろな内臓や筋肉などに切り分けられていきます。

 そうすると、確かにカエルという生き物の内部の仕組みが分かってきます。

 これを日本での人体の解剖の場合に置き換えてみると、それまで漢方の医学書に書いてあったことを鵜呑みに信じていたのに対して、「本当に人間の臓器はそうなっているのか?」と疑問を持って、人体を切り分けることによって、臓器の実態が分かってきました。

 それは、手術など医療技術の飛躍的な進歩に貢献したのです。

 しかしよく考えると、切り分けて死んでしまったカエルは、生きていたカエルではありません。

 たとえ、切り分けられてばらばらになった臓器や筋肉や手足を縫合してつなぎ合わせて、元のかたちに戻しても、それは生きた全体としてのカエルにはならないのです。

 しかも生きたカエルは、実はカエルだけで生きているのではありません。

 一匹のカエルがそこに生きているためには、まず何よりも長い長いカエルの先祖たちからのいのちのつながりが必要です。

 そしてカエルが食物として食べる無数の虫たちのいのちが必要です。

 住む場所としての、池や川、そしてその水が必要です。

 吸っている空気も必要です。

 吸う酸素を出してくれる植物や水中微生物も必要です。

……こうしたことは、考え始めると終わらないくらい無数にあるのです。

 こうしたさまざまなものとの絶えることのないつながりがカエルを生かしています。

 そして、そのカエルと私は、おなじ地球でおなじ空気を吸って生きています。生きている環境・世界を共有しているという意味で、つながっているのです。

 生きた現実としての私とカエルと世界は「主客分離」などしていません。

 これは1例にすぎませんが、世界中のあらゆるものがつながり合って存在しているというのが、「生きた現実」なのではないでしょうか?

 近代科学は、すべてを究極の部分(ある段階では「原子」という「物質」)に分析・還元して、世界の客観的な姿を捉える努力をしてきました。

 繰り返していうと、それは、研究の方法としては、きわめて有効・妥当だったのですが、まず何よりも、「生きた現実」としての世界の姿を捉えたとはいえません。それが第1の問題点です。

 そして第2の問題点は、すでにお話ししてきたように、そうした方法で描かれた世界は、ばらばらのモノ(原子)の組み合わせでできていて、神も魂もそういう方法では検証できない以上存在しないことになったということです。

 個々人のいのちや心さえも「物質の組み合わせと働きにすぎない」ということになったのです。

 「神はいない。人間とモノだけがある」から「神はいない。モノだけがある」というところまでいった物質還元主義(唯物主義)な科学の目で見ると、「すべては究極の意味などないただのばらばらのモノの寄せ集めだ」ということになります。

 世界はばらばらのモノの寄せ集めであると考えるような世界観を、私はわかりやすく〈ばらばらコスモロジー〉と呼んでいます。

 近代の世界観はつきつめると〈ばらばらコスモロジー〉になり、それを人生観にまで適用すると、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に到らざるをえない、そこに近代の決定的なマイナス面・限界(の主要な1つのポイント)がある、というのが私の見方です。

 明治維新と敗戦による「近代化」によって、日本人は近代のプラス面だけではなくマイナス面も背負うことになったのだと思うのです。

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近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 1

2005年09月02日 | メンタル・ヘルス

 近代のプラス面は、何よりも合理主義と近代科学が生み出したものだといっていいでしょう。そして、実はマイナス面もそうだと思われます。

 (以下、合理主義と科学をまとめて、「近代科学」と呼んで論じていきます。)

 近代科学の方法のまず第1のポイントは、「主客分離」でした。

 この「主・客」というのは、英語でいえば「subject」と「object」ですが、日本語に訳す場合に、「主体」・「客体」と、「主観」・「客観」と2通りに訳すことができます。

 第1に、自分がどう思っているか、伝統社会がどう考えてきたか、まして私や私たちがどう信じている、どう信じたいという「主観」を脇において、対象=客体そのものがどうなっているかを「客観」的に観察・研究していくわけです。

それが、それまでのキリスト教の教義(つまり信じていること=主観)を前提に体系化された神学・形而上学とまるでちがうところです。

 神学では、信じていること=主観と事実そのもの=客観を分離することなく、信じていることに合うように事実を解釈するという傾向がきわめて強かったといっていいでしょう。

 それに対し科学は、たとえ正統的な教義がどうなっていようと、聖書にどう書いてあろうと、それが「客観的な事実かどうか」を問うたのです。

 そのことによって、まさにそれまで信仰・教義・主観に覆われて見えなかった客観的な世界のさまざまな姿が見えてきました。

 そこで、歴史的によく知られた「科学と宗教の闘争」がさまざまなかたちで行なわれました(ここでは、詳しく述べません。例えば、ホワイト『科学と宗教の闘争』岩波新書、参照)

 そして、近代の歴史は、「客観」と「主観」を分離するという近代科学の方法が、物事のあり様を研究する上でいかに有効かを実に鮮やか示してきました。

 「科学と宗教の闘争」は、欧米でも完全に終わったとはいえませんが、全体としては科学の圧倒的な優勢(ほとんど完勝?)という結果になっていることはまちがいありません。

 さて、近代科学の方法のポイントの第2は、「分析」(と「総合」)です。

 観察する主体と分離して、向こう側に置かれた研究対象=客体の「全体」は、なるべく小さな「部分」へと「分析」されます。

 つまり「全体」をばらばらにして、ばらばらの「部分」へと還元するわけです。

 そしてそれぞれの「部分」がどうなっており、それらの「部分」がどう組み合わさっているかを明らかにしていきます。

そして、最後にばらばらの「部分」を元のかたちに組み立てます。それを「総合」といいます。

 ばらばらにされた「部分」が組み合わされる=総合されると、それで対象・客体の「全体」が分かったということになります。

 この方法は実に切れ味がよかったのです。この方法を使うと、ほとんど何でも分かるように思えました(いまだに思っている方も少なくないようです)。

 何しろ物事の全体を部分の組み合わせとして捉えれば、その組み合わせはどうにでも変えられるようになりましたから、実に便利でした。

 分析という方法が、さまざまなものを人間の都合のいいように組み換える「技術」を驚異的に発達させたのです。

 その極みが、「遺伝子組み換え技術」でしょう。いのちのかたちを生み出す情報を分析し、そしてそれを組み換え、今までなかった新しいかたちを作り出すことさえできるようになりました。

 こうした近代科学の基本的な方法は、まず、主体(人間)と客体(研究対象)を分離し、さらに客体も部分へと分離・分析するのですから、これはわかりやすくいえば「ものごとをばらばらにすることを原理にした方法」といってもいいでしょう。

 そういう方法のお陰で、いろいろなことが客観的に分かってきた、そしていろいろに組み換える技術も発達した……どこが悪いというのでしょう? いいとこばかりのように見えます。それこそが「近代の栄光」というものなのではないでしょうか?

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近代主義によって深刻化した3つの大問題

2005年09月01日 | メンタル・ヘルス

 「近代主義」においては、合理的な思考が科学を発展させ、科学が技術を発展させ、技術が産業を発展させ、社会を便利にし豊かにしました。

 また、合理的な思考は、神話・迷信を批判し、神話に基づいた身分制を否定し、個人の尊厳(人権)と自由をもたらしました。

 こうしたプラス面だけを見ていくと、近代主義はいいことずくめのように見えます。

 しかしすでにある程度述べてきたように、決定的なマイナス面もあるのです。主な3つの問題を指摘しておきましょう。

①マイナス面の第1は、「環境破壊」です。近代における合理性→技術→産業の発展は、文明による自然破壊=環境破壊を恐るべき規模にまで拡大してしまっています。

文明史の研究者たちの中でよく知られた、「文明が栄えた後に砂漠が残る」という言葉があります。考えてみると、古代文明の栄えた後はみな砂漠になっているのです。

 それは、古代文明が建築資材と燃料としてまわりの森林を伐採し続け、森林が消失すると共に文明そのものも生きる基盤を失って滅亡していったからだと考えられます。

 そういう歴史を見ても、環境破壊は昨日今日始まったものではありません。しかし、ここまで大規模化したのは、人類史始まって以来であることはまちがいありません。

 ②マイナス面の第2は、「戦争の規模拡大」です。20世紀、人類は(欧米を中心として)人類史上最大で最悪の戦争を2度も行なっています。

 これは、合理性→技術→産業の発展→資源と市場の必要→植民地獲得競争が中心的な原因だったと考えられます。

 また技術と産業の発展は、軍事技術と軍事産業の発展をももたらし、戦争の大規模化を進めたこともまちがいないことでしょう。

 その最大でもっとも深刻な問題が「核兵器」です。

 「核軍縮」とか「核拡散防止条約」とか、いろいろ事態はよくなっているように見えますが、しかし現在に到るまで、地球の表面を何十回も焼け野原にしてもまだ余るくらいの核兵器が存在することは、少し調べれば誰にでもわかることです。

 そして、第二次世界大戦後すでに半世紀以上経過していますが、いまだに戦争はまったくなくなりそうもありません。

 「核の廃絶」も「戦争の廃絶」も実現せず、「世界平和」は実現していないのです。

 ③そして、マイナス面の第3が、本講義のテーマにかかわる「ニヒリズム」です。

 思想史を調べてみると、古代から無神論も虚無主義もないわけではありません。虚無主義的な倫理の否定も快楽主義もありました。

 しかし、例えば私のアンケート調査の結果が示しているような、若者のきわめて多数が、「人間は死んだら無になる」、「人間は結局自分が一番大事だと思うものだ」、「人生は自分の楽しみのためにある」と考えているような社会は、人類史上かつてなかったのではないでしょうか。

 近代のすべてを物質に還元して捉えてしまうような「科学」は、必然的に「神」や「魂」といった「精神的なもの」の存在を否定します。

 近代科学主義をつきつめると、世界には「神はいない。モノだけがある」というコスモロジーになるのです。

 それでもある段階までは、「神はいない。人間とモノだけがある」。そして、「人間には価値(尊厳)がある。その価値ある人間がモノを利用しながら、より幸福になっていくのだ(進歩)」というヒューマニズム(人間中心主義)が信じられていました(いまでも信じている人もいるようです)。

 しかし人間も、近代科学的に捉えると、ばらばらの物質(例えば原子)の組み合わせとその運動なのであって、死ねば元のばらばらの物質に還って、それで終わりです。

 モノの寄せ集めに、絶対的な意味があるといえるでしょうか? モノの寄せ集め(個人)のさらに寄せ集め(社会)に、絶対的な倫理が成り立つでしょうか?

 モノには、運動や運動の法則はありえても、意味や倫理はありえません。

 近代の科学主義では、人間の心は、複雑な、しかし所詮モノである「脳」の働きに還元して理解されます。もちろん、喜びも悲しみも愛も創造も、モノである脳の働きの産物にすぎません。

 ……というわけで、近代の物質還元主義的な科学は、つきつめれば必然的に「ニヒリズム」になります。

 つきつめなければ、絶対的な根拠はないまま、人間が自分で勝手に「人間には価値がある」と主張しているだけとしか思えない「ヒューマニズム」に踏みとどまることもできますが。

 あるはさらにもっと徹底しないようにすれば、「絶対的な意味はなくても、自分なりの意味や生きがいや楽しみや快楽があればいいじゃないか」と思って、それなりに生きることももちろんできないことはありません。

 「つきつめれば」ということに関して、非常に典型的なエピソードがありました。

 私が初めて大学に毎週講義に行くようになった年、数回の授業が終わった後、やや幼い顔をした可愛い女子学生が、その顔に似合わない深刻な表情で話に来て、こういいました。

 「先生、私は考えれば考えるほど、死にたくなるんですが、友達に相談したら、『バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるのはやめたほうがいい』といわれました。考えないほうがいいんでしょうか?」

 私は、こう答えました。

 「きみたちが学校で教わってきたことを元にして、考えれば考えるほど、死にたくなるんだけど、これから考えれば考えるほど、死にたくなくなる、生きたくなる考え方を伝えるから、あわてて死にたがらないで、がんばって授業に出ておいで。」

 そして彼女はがんばって続けて授業に出てきてくれましたが、前期末に、私が「どう、まだ死にたい?」と聞くと、彼女は「だいぶ死にたくなくなりました」と答えてくれました。学年末には、さらに元気になっていきました。

 これまで、だいぶ深刻な、若者の言葉でいうと「暗い」話をしましたが、もう少しで明るい話になっていきます。もう数回、我慢して聞いてください。

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