幸せの深呼吸

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安本亀八『相撲生人形』の素晴らしさ!生人形の作品が鑑定団に!

2013-05-08 | Art

鑑定団に、安本亀八の生き人形が出ていました。

以前、彼の作品は観て、あまりの瞬間を捕えた迫力とリアルさ、2本の足で立たせるようにしたバランス感覚、超絶的な技巧に魅了されたので、よく覚えていました。

伊賀では沢山正装した裕福な家に頼まれて、制作したのが残っているようですが。

生き人形は、当時は芸術というより興行としてで、空襲や関東大震災などによって、消失して、あまり残っていないようです。

大地主だった奈良の5代前の先祖が、人の面倒をみることが好きで、1年半ほど彼が滞在していた間にお礼として作ったということです。

注文ではなく、お礼としてなので、正装ではなく、リラックスした格好で作られているのも、珍しいということです。

普段は仕舞い、年行事の時に、一族だけが観る門外不出の秘宝ですが、よくできた貴重な作品です。

九州から東京に出る間10年間に、伊賀から大和の間が空白で分かっておらず、それを埋める歴史的価値のある新発見と言っていました。

他にも、竹久夢二が当時付き合っていたというおばを描いたという作品も出ていました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9C%AC%E4%BA%80%E5%85%ABから

文政9年(1826年) - 明治33年(1900年12月8日)は、江戸時代末から明治にかけて活躍した日本の人形師。

熊本迎宝町、現在の熊本県熊本市出身。仏師の家系に生まれ、その道を志すが明治維新以後は排仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、人形細工師として身をたてる。その後、活人形師として兄と共に上方へ出て初興行を行う。最大の出し物は、生身の人間の姿をそのままに造った、「活人形」(生人形)であった。人形の造形は精緻で、まるで血が通い、生きているかのようなリアリティは多くの観客を呼び集め評判になった。江戸で興行した『忠臣蔵』などの演目は庶民に大人気を博した。

明治8年(1875年)には上海で興行を行い、海外へ進出。国内では、明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に等身大の美貌の活人形を出展、世間を驚かせ人気を集める。当時の日本では活人形師として松本喜三郎とはその技量と人気で双璧を争ったという。明治13年(1880年)、内務省博物局開設の「観古美術会」創設に参加。審査員をつとめる。明治31年(1898年)、初代・亀八改め亀翁に改名。長男の亀二郎が二世・亀八を襲名(長男は翌明治32年(1899年)に鹿児島で客死、三男が三世を急遽襲名)。明治33年(1900年)、初代の亀八は75歳で死去。文化人としての評価も高かった。墓は世田谷区烏山の高龍寺にある。

以前に観た作品で印象に残っていた作品 安本亀八『相撲生人形』

大きすぎて見えないかな?

http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/info/156522/index.html

「美の巨人たち」
  - 安本亀八『相撲生人形』 -

きょうの1作目、安本亀八作「相撲生人形」。野見宿禰が当麻蹴速の腰を掴み必死に投げ飛ばそうとする姿は圧倒させる。2つの人形は2mの高さがあり、表情から身体のラインなどリアリティを感じるものである。安本亀八について専門家は、国外で有名で様々な万国博覧会に作品を出品していてい技術を持った品の良いものを作った人だという声があがっていた。
 
安本亀八の1作目 「相撲生人形 野見宿禰と当麻蹶速」の紹介。2体の人形の身長は2mを超える大きさである。更に、熊本市現代美術館の主任学芸員、冨澤治子さんは、2体の人形が1人、2本の足で支えている事から不安定なポーズを易易と造ったのは当時、力量の見せ所だったのではないかと解説した。
生人形師 安本亀八を紹介。1826年、熊本市で生まれた。当時、生き人形は庶民の見世物の為に造られた特殊な人形で、その完成ぶりに人々は驚嘆と喝采の声をあげていたと伝えられた。当時、有名な生き人形師は2人いて安本亀八と松本喜三郎だった。2人とも熊本出身の隣町のライバルだった事が伝えられた。1852年、27歳の時に熊本を出て関西に向けて出発し、神社や仏閣に入り、人形を作る事で生計を立てていたと言われている。当時の作品「角田半兵衛・みか夫婦像」は三重県、名張市に残っている。
安本亀八が生人形師として本格的に活躍したのは明治に入ってからである。東京大学人文社会系教授の木下直之さんは安本亀八について、きっかけは作品「鹿児島戦争」や「高名真似顔鑑」がきっかけで一気注目を浴びたと説明した。
野見宿禰の胴体の部分には軽い桐の木が使われていて、見世物小屋から見世物小屋へと巡業する際、運びやすいように作られている。
大阪府枚方市にある菊人形の工房で、ひらかた市民菊人形の会の指導にあたっている武河重仁さんに、人形作りの技を見せてもらった。肌作りには胡粉に膠を混ぜて練ったものを使う。彩色は肌色に調合した顔料を使い、色ムラが無くなるまで10回ほど重ね塗りする。血管も胡粉と膠を練り上げたものを使う。血管の形に盛り付け、乾かしては盛り付けるという作業を繰り返し、磨き上げる。
相撲生人形は第3回 内国勧業博覧会の出品のために制作されたものだったが、期日に間に合わず浅草寺の門前に展示された。相撲生人形は後にアメリカ人コレクターに買い取られデトロイト美術館に寄贈される。この点は浮世絵にも共通している。浮世絵もヨーロッパの芸術家に注目されていた。
 
 
2013/1/26(土) 22:00
20130126-220217-840
内容
幕末・明治に活躍した安本亀八の「相撲生人形」(1890年)を紹介。
亀八は熊本に1826年(文政9年)に生まれる。安本亀八と松本喜三郎の2人の人形師が有名だった。明治時代の浅草で見世物を出して評判になる。
人形は膠と胡粉で肌を作り、何度も塗り重ねたあと、彫刻刀とやすりで形を作って、サラシで磨き上げる。移動しやすいよう、寄木造りで解体でき、中は空洞で47kgしかなく、自立している。相撲生人形は浅草寺の前で展示され、アメリカ人が彫刻芸術として買い上げてデトロイト美術館に展示された。生人形は娯楽とされ、美術品と扱われず、映画に押されて消えていった。

感想
生人形は迫力があって見応えがあった。やや漫画的な表現部分があり、そこが娯楽として扱われた一因かと思った。蝋人形がリアルでも芸術として扱われにくいのに似ているかも。以前の回で紹介されてた真葛焼などと並び明治時代の工芸品は面白い。
20130126-220406-871
細部まで作り込んでいる
20130126-222312-418
亀八の弟子の人間国宝の平田郷陽の1931年の作品「粧い」
20130126-220725-918
コメント (2)
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超かわいいうさちゃんのいびき(*^-^*)

2013-05-08 | 猫うさぎ犬、動物

Bunny snoring

アップロード日: 2007/09/13

思い出しました。いびきってかいていたんだ。

うちの子は、次の動画のに近かったような。

消え入るような、かすかな声でした。

【ショコラ】いびき後、突然あくびします(*^-^*)

アップロード日: 2011/03/15

ショコラがイビキをかいています。
突然立ち上がってあくびします☆

うさぎ君のいびきzzz

アップロード日: 2012/02/03

うさぎもイビキをかくんですね~
気持ちよく寝てます。

 

のほほん動物くんたちhttps://ja-jp.facebook.com/NohohonAnimal

コメント (4)
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