鑑定団に、安本亀八の生き人形が出ていました。
以前、彼の作品は観て、あまりの瞬間を捕えた迫力とリアルさ、2本の足で立たせるようにしたバランス感覚、超絶的な技巧に魅了されたので、よく覚えていました。
伊賀では沢山正装した裕福な家に頼まれて、制作したのが残っているようですが。
生き人形は、当時は芸術というより興行としてで、空襲や関東大震災などによって、消失して、あまり残っていないようです。
大地主だった奈良の5代前の先祖が、人の面倒をみることが好きで、1年半ほど彼が滞在していた間にお礼として作ったということです。
注文ではなく、お礼としてなので、正装ではなく、リラックスした格好で作られているのも、珍しいということです。
普段は仕舞い、年行事の時に、一族だけが観る門外不出の秘宝ですが、よくできた貴重な作品です。
九州から東京に出る間10年間に、伊賀から大和の間が空白で分かっておらず、それを埋める歴史的価値のある新発見と言っていました。
他にも、竹久夢二が当時付き合っていたというおばを描いたという作品も出ていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9C%AC%E4%BA%80%E5%85%ABから
文政9年(1826年) - 明治33年(1900年)12月8日)は、江戸時代末から明治にかけて活躍した日本の人形師。
熊本迎宝町、現在の熊本県熊本市出身。仏師の家系に生まれ、その道を志すが明治維新以後は排仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、人形細工師として身をたてる。その後、活人形師として兄と共に上方へ出て初興行を行う。最大の出し物は、生身の人間の姿をそのままに造った、「活人形」(生人形)であった。人形の造形は精緻で、まるで血が通い、生きているかのようなリアリティは多くの観客を呼び集め評判になった。江戸で興行した『忠臣蔵』などの演目は庶民に大人気を博した。
明治8年(1875年)には上海で興行を行い、海外へ進出。国内では、明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に等身大の美貌の活人形を出展、世間を驚かせ人気を集める。当時の日本では活人形師として松本喜三郎とはその技量と人気で双璧を争ったという。明治13年(1880年)、内務省博物局開設の「観古美術会」創設に参加。審査員をつとめる。明治31年(1898年)、初代・亀八改め亀翁に改名。長男の亀二郎が二世・亀八を襲名(長男は翌明治32年(1899年)に鹿児島で客死、三男が三世を急遽襲名)。明治33年(1900年)、初代の亀八は75歳で死去。文化人としての評価も高かった。墓は世田谷区烏山の高龍寺にある。
以前に観た作品で印象に残っていた作品 安本亀八『相撲生人形』
大きすぎて見えないかな?
http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/info/156522/index.html
「美の巨人たち」
- 安本亀八『相撲生人形』 -
内容
幕末・明治に活躍した安本亀八の「相撲生人形」(1890年)を紹介。
亀八は熊本に1826年(文政9年)に生まれる。安本亀八と松本喜三郎の2人の人形師が有名だった。明治時代の浅草で見世物を出して評判になる。
人形は膠と胡粉で肌を作り、何度も塗り重ねたあと、彫刻刀とやすりで形を作って、サラシで磨き上げる。移動しやすいよう、寄木造りで解体でき、中は空洞で47kgしかなく、自立している。相撲生人形は浅草寺の前で展示され、アメリカ人が彫刻芸術として買い上げてデトロイト美術館に展示された。生人形は娯楽とされ、美術品と扱われず、映画に押されて消えていった。
感想
生人形は迫力があって見応えがあった。やや漫画的な表現部分があり、そこが娯楽として扱われた一因かと思った。蝋人形がリアルでも芸術として扱われにくいのに似ているかも。以前の回で紹介されてた真葛焼などと並び明治時代の工芸品は面白い。
細部まで作り込んでいる
亀八の弟子の人間国宝の平田郷陽の1931年の作品「粧い」