人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自我、自己、真我

2024-09-28 09:37:49 | スピリチュアル
前回の続きのようですが、原始仏教では、自己なるものは、他者との関係性によってなるものとし、従って真我、アートマンというものも実体の無いものであり、”無我”ということを強調したのでした。
しかし、それがどういうものであれ、実体が有ろうと無かろうと、私、自己という感覚があるのは否定しようのないものではありませんか?
先の縁起論のようなものに接して、どれだけ肯けるのかどうかは分からないですが、それを聞いて受け入れるか拒絶したりしているのは誰か?、ってことにならないでしょうか?
少なくとも私は、気絶でもして全く意識が無くなってしまわない限り、”私そのもの”を意識していることを否定することは出来ません。その私が真我なのかどうかは別として...
通常、他者(ほとんどは他人、他己)を通して認識している自己は、そういう顔、性格を有している私という個人です。
その私は、もしかして悪い、バカな、ダメな自分かもしれず、あるいは正しく、人より優れた、いやもしかしたら悟って真我に到達した(?)自分なのかもしれません。
しかし、こういうものは言うまでもなく、他人と比較して作り上げた自分像に過ぎないのです。
一方、先の”私そのもの”の自己意識は、他人という鏡を通したものでない、何ら色づけられるものでない、元から在る自分と言うことが出来るでしょう。
これについて、神学者の八木誠一先生は、確か前者は”自我”、後者は”自己”と使い分けておられました。
それで、この真我というものの言い回しなのですが、ます、その自我によって作られた、自分がなりたがっている(本当の自分になりたがっている?な自分!)自分とは、虚構の自分、つまり偽我ということになるでしょう。
これに対し、私そのものの自己は、ダメだろうと、正しかろうと、(こう言っちゃおう!)偽りだろうと本当だろうと、自分の判断を超えた、ありのままの自分という他ありません。(ありのまんまなのだから、受け入れるしかなく、それを疑うことは出来ないのです)
こういう意味合いにおいて、それは本当の自分、真我と言ってもいいでしょう。
それは、今の本当でない自分が到達したりする自分では無いのです。
といって、考えている自分、自我である自分からは、そうなれない、というかそのように在らしめられることは出来ないでしょう。
その自分を超えたものからの光に照らされなければ...というか”超えたものがある”、と認識されることがそう在らしめられることなのです。
だから、真我というものは、神的なもの、その光無しには顕わにならないものなのです。
この意味で、(自我でない)自己も鏡を通して認識されるのでしょうが、その鏡は見えないものであるのは言うまでもなく、神的な見えない他者は、見える他者のような二元的な有り様を超えているのです。(ラマナ.マハルシが説いていた真我も神と切り離されない、このようなニュアンスのものに違いないでしょう)
上よりの光に照らされるまんまが本当の自分!
神無しには、真我の実現は無い!

いやあ、この夏の光の照射は実に強烈だった!...
今は、その光がいよいよ我が内を照らし、浸透されてゆく秋!...


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