コ難く、ややこしい宗教やスピの道のことはひとまず置いといて、人生を悩み苦しみからなるべく自由に、幸福に生きるには、自分が愛してやまないもの、単純に好きなものがある、ということが大きいですね。
人生には苦難は付き物とはいえ、それがあることでいくらかでも苦難を引きずらず、軽減することが出来るでしょう。
私は生来から引きずりやすい質で、すぐ考え込んでしまう傾向があるのですが、一方では、何か惹かれるものがあると、トコトンのめり込む質でもあるのでした(これは、実に裏表の関係であることが分かります)。とにかく凝る...凝り性がどれだけ私を救ったか分からないくらいです。
音楽鑑賞(凝らなきゃ絶対たどり着けない、誰も知らない中南米音楽とか)、そして読書(これは、もう趣味のレベルを超えて、トコトン行かなければ絶対満足出来ない心持ちのままに、そう、あの”禁断の領域”へと入り込むことになるのです!)
幸福で居られるということは単純に、愛しているもの、好きなもの、夢中になるものがある、ということではないでしょうか?(これと紙一重のものに、依存症、中毒症といったものがありますが、実際に話を聞いても、それは止めたくても止められないから苦しいことなのです)
好きなことに夢中になっている人は、生き生きとしていて、年をとらないように見える。”何のために生きるのか?”、なんてコ難しいこと考える必要がありません。好きに生きているから生きている、そういう自分を生きているんだ、何が悪い?
まわりの”ああしなきゃ、こうしなきゃ、こうでなければ”、ということには関係無しに!...
そういう人は、多かれ少なかれ、そういう自分を愛し、受け入れているはずです。
何が正しい、かにが真実だと、コ難しいことばかりに思いが囚われていて、”神を、人を愛さなければなりません”、なんて歯が浮いたようなこと言っている人間とは大違いですよ。
神を愛しているのか、怖れているのかどっちだか分からんではないか?
間違ったことを思っては、やってはいないか...上からの目線を常に気にしていて、ホントは、好きなことがあるのに、それを打ちに引っ込めて...ああ、もうこりゃ精神分裂ではないか!
まず、自分を愛し、受け入れなければ、絶対に幸福に与ることは出来ないでしょう。
しかし、考える自分だけの自己は、他者の目と結びつくその自我性から自己そのものを受け入れることが中々出来ないのです。
これは、自分の思い、自我性を超えたものを受け入れることで開かれるのです。
それが神を受け入れることにつながるのです。
然るに、その神が怖れの対象になってしまっているのだから、救われようがないではありませんか?
ああ、愛なる神!...もう私は聞いただけで、ジッとしていられません。(又どうしてもこうなってしまうんだな...これは私の場合です。理屈無しに惹かれてやまない、最愛のものと言ったらそうなってしまう!...)
何であれ、あなたにとって最愛のもの、惹かれてやまないもの、好きで好きでたまらないものがあれば、幸福にならない方がオカシイです。
こういう意識の状態が、思いを、自我性を超えているということに他ならないのです。
その対象は何であれ...”なんだ、そんなもの!”、なんて他からの雑音なんか関係無いですよ!
どれだけ、あなたが無心に夢中になれるかどうかということが重要なのです!
それでも、私はその形ある愛する対象には、見えない、形なき対象なき最愛なるものが隠されていて、重ねられているのを感じているのですが...
誰でもそういうものは、神ったもののように感じているには違いないでしょう!...
人生には苦難は付き物とはいえ、それがあることでいくらかでも苦難を引きずらず、軽減することが出来るでしょう。
私は生来から引きずりやすい質で、すぐ考え込んでしまう傾向があるのですが、一方では、何か惹かれるものがあると、トコトンのめり込む質でもあるのでした(これは、実に裏表の関係であることが分かります)。とにかく凝る...凝り性がどれだけ私を救ったか分からないくらいです。
音楽鑑賞(凝らなきゃ絶対たどり着けない、誰も知らない中南米音楽とか)、そして読書(これは、もう趣味のレベルを超えて、トコトン行かなければ絶対満足出来ない心持ちのままに、そう、あの”禁断の領域”へと入り込むことになるのです!)
幸福で居られるということは単純に、愛しているもの、好きなもの、夢中になるものがある、ということではないでしょうか?(これと紙一重のものに、依存症、中毒症といったものがありますが、実際に話を聞いても、それは止めたくても止められないから苦しいことなのです)
好きなことに夢中になっている人は、生き生きとしていて、年をとらないように見える。”何のために生きるのか?”、なんてコ難しいこと考える必要がありません。好きに生きているから生きている、そういう自分を生きているんだ、何が悪い?
まわりの”ああしなきゃ、こうしなきゃ、こうでなければ”、ということには関係無しに!...
そういう人は、多かれ少なかれ、そういう自分を愛し、受け入れているはずです。
何が正しい、かにが真実だと、コ難しいことばかりに思いが囚われていて、”神を、人を愛さなければなりません”、なんて歯が浮いたようなこと言っている人間とは大違いですよ。
神を愛しているのか、怖れているのかどっちだか分からんではないか?
間違ったことを思っては、やってはいないか...上からの目線を常に気にしていて、ホントは、好きなことがあるのに、それを打ちに引っ込めて...ああ、もうこりゃ精神分裂ではないか!
まず、自分を愛し、受け入れなければ、絶対に幸福に与ることは出来ないでしょう。
しかし、考える自分だけの自己は、他者の目と結びつくその自我性から自己そのものを受け入れることが中々出来ないのです。
これは、自分の思い、自我性を超えたものを受け入れることで開かれるのです。
それが神を受け入れることにつながるのです。
然るに、その神が怖れの対象になってしまっているのだから、救われようがないではありませんか?
ああ、愛なる神!...もう私は聞いただけで、ジッとしていられません。(又どうしてもこうなってしまうんだな...これは私の場合です。理屈無しに惹かれてやまない、最愛のものと言ったらそうなってしまう!...)
何であれ、あなたにとって最愛のもの、惹かれてやまないもの、好きで好きでたまらないものがあれば、幸福にならない方がオカシイです。
こういう意識の状態が、思いを、自我性を超えているということに他ならないのです。
その対象は何であれ...”なんだ、そんなもの!”、なんて他からの雑音なんか関係無いですよ!
どれだけ、あなたが無心に夢中になれるかどうかということが重要なのです!
それでも、私はその形ある愛する対象には、見えない、形なき対象なき最愛なるものが隠されていて、重ねられているのを感じているのですが...
誰でもそういうものは、神ったもののように感じているには違いないでしょう!...
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