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渡来人として日本にやって来た秦氏は始皇帝の子孫!? 或いはユダヤ人だった!?

2017-12-25 04:30:14 | Weblog

★渡来人を祖に持つ秦氏 古代政権に食い込む
 紀元前二世紀から七世紀にかけて、中国や朝鮮より渡来人が日本へと移住する。
特に、応神天皇の時代には、多くの渡来人が大陸の文物や技術を持ってやって来た。
『日本書紀』によると、秦氏の先祖である弓月君は応神天皇の時に、百済から来朝し(四世紀とみられる)、百済百二十県の人を率いて日本に渡ろうとしているが新羅が妨害していると訴えた。
そこで、天皇は新羅を牽制して彼らの渡来を助けた。
この頃朝鮮半島南部では、百済や新羅がようやく国らしくなって来たが、群小国が乱立し、日本と高句麗が南北から進出し、特に、日本は優勢に支配地を広げていた。そして、この地域には多くの漢人が住んでおり、彼らが専門家として重宝されて日本にも渡って来たが、その中に秦氏も居たのである。

渡来理由にはその他、諸説ある。
中国の秦が滅び亡命して来た説、万里の長城建設などの苦役に耐えられず秦韓(紀元前三世紀から四世紀にかけて朝鮮半島南部にあった国)に落ち延びた後に日本へ亡命して来た説、更に、秦の始皇帝の末裔を称して異国において優遇され様と目論んだ、本当は秦とは無関係の一族、などの説もある。
渡来後は、先ず豊前国を拠点とし、その後山背(やましろ)国葛野郡、同紀伊郡、河内国讃良(ささら)郡、摂津国豊嶋郡など各地に土着して行く。水田開発や養蚕、機織りなど当時では新しい技術を使いこなし、伊勢や東国との遠隔地交易を行ない、富を築き上げて行った。
その一方で、優れた土木治水技術も持っていた為、応神・仁徳・推古期の大治水事業の中核となって活躍し、奈良時代には宮の造営も行っている。全国に機織りの技術を広めたのも秦氏である(肌の様な質感の絹織物を作ったことが、肌=秦に転じた、また機から転じたと云う説などもある)、創建に関係した神社・寺院も少なくない。主なものに、京都市伏見区にある全国三万の稲荷神社の総本山の伏見稲荷大社。同市左京区嵐山にある松尾大社、同市右京区太秦にある広隆寺がある。
その後、豊潤な富と確かな技術を基にした秦氏は、人口も八千人にも上り、古代最大の豪族となって行った。

★始皇帝からユダヤ人説まで 謎に満ちた秦氏のルーツ
 秦氏のルーツは未だ諸説に富み、古代ミステリーの大きな謎の一つである。
公式の系図に基づいた、秦の始皇帝を祖に持つと云う説がある。平安時代の初期、八一五年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録』には、秦氏の祖は始皇帝と記されている。仲哀天皇の時代に来朝した秦の始皇帝三世の孫に孝武王の子功満王がいる。その功満王の子である融通王が、秦氏の祖、弓月君だと記されている。
後は、憶測に過ぎないが、百済系渡来氏族説、弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和調である「くだら」と同音であり、『日本書紀』に於ける弓月君が、百済の百二十県の人民を率いて帰化したとの所伝も、この説を補強している。
中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来すると云う説。羌族はチベット系民族であって、同言語に於いてハタは辺鄙の土地と云う意味であることからチベット系だとする説もある。
その他、ローマ人であるとするものもある。古代中国ではローマ帝国を「大秦国」と呼んでいること、雅楽で有名な東儀氏は秦氏から出ていることからも、ローマ人を祖とするとしている。
更には、秦氏がキリスト教徒であることや、イスラエルからも近い中央アジアに弓月国が存在したこと、エルサレムの都に倣って郡の造営に貢献したことからユダヤ系であると云う説もある。
秦氏と所縁の深い地に、京の太秦があるが、そこにある伊佐良井(イサライ)と云う地名が「イスラエル」の井戸(旧約聖書に於ける「ヤコブの井戸」)から転じたものとしている。

★歴史上の様々な人物たちが秦氏の末裔を称して行く!!
 末裔・枝氏は六十ほどあるとされ、秦氏の末裔とされる種族は、歴史上度々現れる。
古代貴族との婚姻関係も多い(例えば平安時代の貴族、藤原種継の母系は秦氏である)。現在の天皇家にも、秦氏の血が入っている。そうなると、現天皇家が秦の始皇帝の末裔と云う説も成り立って来る。更に、薩摩島津氏は、平安時代に秦氏から出た惟宗(これむね)氏から派生した氏族と言われている。また、戦国時代、四国に君臨した長宗我部氏は、本姓は秦氏を称していた。聖徳太子の側近として秦氏の基礎を築いた秦河勝の後裔とされている(平安時代に土佐国長岡郡宗部郷の地頭となった秦能俊が、長宗我部に改姓し始祖となった)。

画像・イスラエルから秦の国までのイスラエル人の移動経路
   遺伝子で見る秦氏

*まとめ
 古代渡来人・秦氏は天皇家、島津家にも繋がる大一族

     



                         「その後」の日本史
                              歴史に埋もれた名家・名門の「その後」

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