◆王賁の水攻めで陥落
黄河の西の河西の地を領土として持ち、西に接する秦を圧迫していた魏だったが、やがて逆に秦からの脅威を身にしみて感じるようになる。紀元前340年には河西を秦に差し出し、紀元前339年には黄河東岸の郡の安邑を保持できなくなって、大梁に都を移している。
魏の信陵君(魏の公子。戦国時代に活躍した「戦国四君」の一人として名高い)が秦に包囲された趙の邯鄲を救って(ちなみに、この時には3歳の幼い始皇帝も邯鄲にいた)、秦軍を撃退し、そのまま勢いに乗じて5ヶ国の合従軍を率いて秦を攻めたこともあった。この時は函谷関まで攻め込み、あわよくば函谷関を抜いて咸陽に迫る勢いだったが、秦の謀略で信陵君の兄でもある安釐王との仲が引き裂かれると、信陵君は悲しみながらも軍を撤退させた。その後、信陵君は鬱々とした日々の中で酒浸りになり、紀元前244年に信陵君が死ぬと秦の侵攻は激しさを増し、紀元前242年には秦は魏の城20を陥落させている。そして韓と趙を滅ぼした秦が、いよいよ魏に迫る。
紀元前225年に、秦の将軍・王賁(おうほん)が魏の郡の大梁を包囲した。大梁に立てこもる魏の軍勢に対して王賁がとった戦術は水攻めだった。黄河から水を運ぶ為の水路が大梁の城外を通っていた。王賁はこれを利用して大梁に水を注いだのだ。城壁は大量の水に侵食され、3ヶ月で崩壊した。篭城を選択して力を消耗していた魏は為す術もなく敗北してしまう。魏の最後の君主である王假は降伏して捕虜となり、魏は秦のものとなった。
◆戦国時代初期の強国も秦の攻勢に散る..... 魏のルーツと末路
魏との戦いで活躍した王賁は、秦の名将・王翦の息子である。王翦の才を受け継ぎ、父ともども秦の天下統一に大いに貢献した。紀元前226年に王翦と燕の都の薊を陥落させたところから、名前が歴史書で見られるようになる。魏を滅ぼした後も、代に逃げていた趙の王子の嘉を捕らえるなど、目覚ましく活躍した。
『史記』によれば、魏氏の子孫は周の文王である畢公高だと言う。晋に仕えた高の子孫の畢万が魏に封ぜられて、魏氏を名乗るようになった。春秋時代の終わり頃には、晋の有力な6つの家のうちの一つになり、晋を韓氏、趙氏と三分。紀元前403年には周王から諸侯として認められて、名実共に独立した国家となる。
戦国時代の諸国の中で、魏は最初の強国になったとされている。文侯(在位は紀元前445~396年)が国政改革を行い、富国強兵の為人材を集め、灌漑用水路を造って農業生産を増大させた。そうやって国の制度を整え、国力の充実を図った。文侯の時代には黄河を越えて進出し、秦を破ったと言う。
五十歩百歩と云う言葉は魏に由来している。魏の3代目君主の恵王が儒学者の孟子を招いて、「隣国よりも良い政治をしているのに、どうして人が集まらないのだろう」と尋ねたところ、孟子は戦場から100歩逃げた兵士を50歩逃げた兵士が笑った例え話をして、「良い政治をしているつもりでも、隣の国と結局変わらないのです」と諭したと謂う。
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南の大国も王翦には適わなかった 楚の滅亡
◆秦を手こずらせた大国
残る3国の中で、一番の難敵は楚だった。始皇帝が楚を倒すのにはどれぐらいの兵が必要かと、将軍たちを集めて問うたところ、李信は20万も居れば十分と答えた。王翦にも尋ねたところ、その答えは60万だった。王翦は老いたと感じた始皇帝は、楚討伐を李信に任せた。王翦は病気と称して郷里に戻ってしまった。軍を率いた李信は緒戦では勝利したものの、不意を突く楚軍の急襲を受けて、大敗を喫してしまう。同じく秦軍を率いていた蒙恬を含めて、失った将校は7人と云うから、壊滅的な敗北であったことが窺える。始皇帝は王翦の郷里に駆けつけ、再出馬を頼んだ。最初は病気を理由に断った王翦も、非礼を詫びる始皇帝の頼みを受け入れ、60万の兵と楚を倒した後の田畑と屋敷の褒美を欲しがった。これは60万の大軍を預けられても、自分は褒美目当てだから反乱などしないと始皇帝に解って貰う為に、敢えてとった行動だったと言う。大軍を得た王翦は強固な要塞を築いてジックリと構える、その上で秦に攻める気がないと判断した楚軍が引き上げるところを一気に攻めて撃破した。王翦ならではの巧みな戦術だった。紀元前224年に王翦は河南の陳から南の平輿まで占領して、楚王の負芻を捕虜とした。これにより実質的に楚は滅亡したが、楚の将軍項燕が王子の一人昌平君を王として擁立し、淮南の地で抵抗を続けた。しかし、これも紀元前223年に王翦と蒙武によって攻められ、あっけなく敗北。昌平王は戦死し、項燕は自殺した。
◆かつて秦の勃興を支えた同門との対決.....
楚の最後の将・項燕と昌平君
王翦と共に楚を攻略した蒙武は、秦の百戦錬磨の老将である蒙驁の息子。王翦の副将として、李信を破った楚の項燕が秦に侵攻したのを打ち破って、そのまま楚に攻め込んで負芻を捕虜としている。楚の残存勢力である昌平君と項燕に対しても、やはり副将として王翦と共に立ち向かってこれを撃破している。
楚を滅ぼした王翦と蒙武は更に軍を進め、越を服従させる。越の中に東甌と云う国があり、秦の統一後は郡が置かれたものの、戦国時代と変わらぬ治世が続いたと言う。始皇帝の死後、第7代の東甌王の雒搖が挙兵。最初は楚の項羽に協力していたが、やがて劉邦を支援するようになり、雒搖は劉邦から正式に東甌王の称号を与えられている。
20万の秦軍を率いた李信を打ち破った、楚の大将軍の項燕。この時項燕は、李信と蒙恬が合流したところを奇襲して勝利を収めている。秦にとって7人の将校が討ち取られ、全軍を失うほどの大敗だった。項燕の大勝は楚で語り継がれ、項燕の子孫である項羽と項梁が秦に対する反乱軍を旗揚げし、その遺志を継いだ。
楚王の負芻が捕らえられた後に、将軍・項燕によって楚王の地位に就けられた昌平君。昌平君は若い頃に人質として秦に送られ、そこで相国(宰相)にまでなっている。尉繚と共に軍事面に関わり、多くの将兵を育成したと言う。紀元前238年に 嫪毐が反乱を起こした際には、始皇帝に命じられ昌文君と共にこれを鎮圧している。
*画像 戦国七雄の図
魏の都・大梁を水攻めにする
王翦の楚侵略図
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