豆を煮て以て羹と作し
支を漉して以て汁と爲す
稘は釜の下に在りて燃え
豆は釜の中に在りて泣く
本と是れ根を同じくして生じたるに
相煎ること何ぞ太だ急なる
豆を煮て、それで豆乳を作り、
豆を漉して汁を作る、
豆がらは釜の下で燃え、
豆は釜の中で泣く。
もとはといえば同じ根から生まれたのに、
どうしてそんなにはげしくいりつけるのですか。

曹操は曹丕を後継者決めたにも関わらず、曹丕は兄弟たちの動向が絶えず気になりました。
特に曹植には、父がいつも誉めたお前の詩は、果たして本当にお前が作ったものかが疑問であると挑発し、曹丕は或る日、曹植に七歩歩く間に詩を作ってみよ。できなければ死を賜うと言いました。
題材はそこにあった二匹の牛が争っている水墨画でしたが、ただし牛とか二匹とか云う文字の利用は許しません。曹植は歩きだし、七歩で見事な詩を作ります。
曹丕もその臣下も感心しますが、曹丕は更に兄弟を題にした詩を兄弟の二字を使わないで創れと命じます。
豆がらを兄にたとえ、豆は弟の自分。
もとは同じ両親の子として生まれた兄弟なのに、どうしてそんなに私を激しく責める(兄さんは弟の僕を殺そうとしている)のですか?
本来は仲のいい兄弟であったはずなのに、魏という大帝国を父から受け継いだ二人はどうにも不幸な関係になってしまうのです。
曹丕は弟を愛しながら、そして詩人としての才能に嫉妬することもあったでしょうけど、立場上、政治参加を望んでいた弟曹植を迫害してしまうのです。
弟も兄を敬愛し、何とか魏の為に政治の世界に携わりたいのですが、どうしても許されません。
弟よ、お前は多分大変に詩人としての才能に恵まれているのだし、お前が政治の世界に出てきたら、私はお前を殺さねばならないのだよ。
政治は私がやるよ。
おそらく後世にはお前は世界でも第一級の詩人として名をあげることだろう。
私にはそう成ってくれる事が嬉しいのだ。
無いものねだりと言えばそれまでですが、兄は穏やかな風情の中で歌を詠み暮らす事が理想の人生でした。
弟は詩文を詠むよりか、国の政治に参加する事が一番の望みでした。
偉大なる父曹操の息子でなければ、それぞれ、らしく生きられたものを、曹丕と曹植の兄弟は、本当に哀しい境遇だったのではないかと思います。
父の曹操、兄の曹丕、弟の曹植は「周の三曹」と言われています。
特に曹植は、唐の時代に杜甫が現れる以前、中国一の詩人と言われていました。

昨日は、コンサドーレ札幌の応援で厚別運動公園に一日居りました。
雨でも降るのだったなら私はすかさず出かけるのを止めたのですが、幸いな好天。

それと、この先はこれだけ長く外に居る機会もないだろうから、何か、最後だよって気分もありました。
大谷地から厚別へ向かうシャトルバス内で、とても愉快な出来事がありました。
人の良さがうかがえる、そんな話ですが、もし試合に勝ったなら私は日記に書こうと考えていたけれど、負けてしまったんで、言わぬ(書かぬ)が花かナ~と思ったわけで。
最近って云うのかナ。
良いも悪いも私は面倒(?)で何も言いたくないッって気分しきりです。
言っても、単純「良かったね」とか「嬉しいね」「楽しみだね」の一言で済むことしっか言わない事にしています。
何十年も生きて来て、これまで何をして来たかとか、言って来たかと疑ってしまう気持ちを持ったのでしたが、人に対して思う前に、自分がシッカリとしなきゃとする自制心とか向上心のことを考える様になりました。
もしかして、人から見れば私は分厚いバリアーを張っているかの様に見えるカモ知れません。
でもね、私はもう人の言う事になど惑わされないし、自身には代え様のない支柱があり、まっイイかぁ~の世界の人。
チッポケな人間のままで好いではないかって、杓子定規な自分と、適当な自分の二人連れで、コレを楽しんでいる変わった人だ。
自分を第三者的に見れば、「個」が強すぎるんだろうと思う。
面倒になったり、多少意欲を失くしたりして、案外とこれ丁度好くなった感もあり、自分で自分を救った様なところがありますが、これからは如何にも私は「モヤシ」みたいに成って出無精して浮世から外れて長い冬を過すの、本当に愉しみです。
書いて書けないことはないけれど、歌詠みの一つでも出来る嗜みが出来れば好いナァ~と憧憬があります。
(〃゜ー゜〃)

今日から11月。
「紅茶の日」。
ロシア漂流記でお馴染の大黒屋光太夫が1791(寛政3)年11月1日の帰国の際に、女帝エカテリーナ2世から紅茶を贈られた由縁で制定されました。
∧_∧ ∧_∧
( ・∀・)(・∀・ )
、つ=||| )( と)
「犬の日」。
☆⌒ヽ♪
u・・u ♪
(=●=)♪
|  ̄ヽノ
∪∪ ̄∪ =3
支を漉して以て汁と爲す
稘は釜の下に在りて燃え
豆は釜の中に在りて泣く
本と是れ根を同じくして生じたるに
相煎ること何ぞ太だ急なる
豆を煮て、それで豆乳を作り、
豆を漉して汁を作る、
豆がらは釜の下で燃え、
豆は釜の中で泣く。
もとはといえば同じ根から生まれたのに、
どうしてそんなにはげしくいりつけるのですか。

曹操は曹丕を後継者決めたにも関わらず、曹丕は兄弟たちの動向が絶えず気になりました。
特に曹植には、父がいつも誉めたお前の詩は、果たして本当にお前が作ったものかが疑問であると挑発し、曹丕は或る日、曹植に七歩歩く間に詩を作ってみよ。できなければ死を賜うと言いました。
題材はそこにあった二匹の牛が争っている水墨画でしたが、ただし牛とか二匹とか云う文字の利用は許しません。曹植は歩きだし、七歩で見事な詩を作ります。
曹丕もその臣下も感心しますが、曹丕は更に兄弟を題にした詩を兄弟の二字を使わないで創れと命じます。
豆がらを兄にたとえ、豆は弟の自分。
もとは同じ両親の子として生まれた兄弟なのに、どうしてそんなに私を激しく責める(兄さんは弟の僕を殺そうとしている)のですか?
本来は仲のいい兄弟であったはずなのに、魏という大帝国を父から受け継いだ二人はどうにも不幸な関係になってしまうのです。
曹丕は弟を愛しながら、そして詩人としての才能に嫉妬することもあったでしょうけど、立場上、政治参加を望んでいた弟曹植を迫害してしまうのです。
弟も兄を敬愛し、何とか魏の為に政治の世界に携わりたいのですが、どうしても許されません。
弟よ、お前は多分大変に詩人としての才能に恵まれているのだし、お前が政治の世界に出てきたら、私はお前を殺さねばならないのだよ。
政治は私がやるよ。
おそらく後世にはお前は世界でも第一級の詩人として名をあげることだろう。
私にはそう成ってくれる事が嬉しいのだ。
無いものねだりと言えばそれまでですが、兄は穏やかな風情の中で歌を詠み暮らす事が理想の人生でした。
弟は詩文を詠むよりか、国の政治に参加する事が一番の望みでした。
偉大なる父曹操の息子でなければ、それぞれ、らしく生きられたものを、曹丕と曹植の兄弟は、本当に哀しい境遇だったのではないかと思います。
父の曹操、兄の曹丕、弟の曹植は「周の三曹」と言われています。
特に曹植は、唐の時代に杜甫が現れる以前、中国一の詩人と言われていました。

昨日は、コンサドーレ札幌の応援で厚別運動公園に一日居りました。
雨でも降るのだったなら私はすかさず出かけるのを止めたのですが、幸いな好天。

それと、この先はこれだけ長く外に居る機会もないだろうから、何か、最後だよって気分もありました。
大谷地から厚別へ向かうシャトルバス内で、とても愉快な出来事がありました。
人の良さがうかがえる、そんな話ですが、もし試合に勝ったなら私は日記に書こうと考えていたけれど、負けてしまったんで、言わぬ(書かぬ)が花かナ~と思ったわけで。
最近って云うのかナ。
良いも悪いも私は面倒(?)で何も言いたくないッって気分しきりです。
言っても、単純「良かったね」とか「嬉しいね」「楽しみだね」の一言で済むことしっか言わない事にしています。
何十年も生きて来て、これまで何をして来たかとか、言って来たかと疑ってしまう気持ちを持ったのでしたが、人に対して思う前に、自分がシッカリとしなきゃとする自制心とか向上心のことを考える様になりました。
もしかして、人から見れば私は分厚いバリアーを張っているかの様に見えるカモ知れません。
でもね、私はもう人の言う事になど惑わされないし、自身には代え様のない支柱があり、まっイイかぁ~の世界の人。
チッポケな人間のままで好いではないかって、杓子定規な自分と、適当な自分の二人連れで、コレを楽しんでいる変わった人だ。
自分を第三者的に見れば、「個」が強すぎるんだろうと思う。
面倒になったり、多少意欲を失くしたりして、案外とこれ丁度好くなった感もあり、自分で自分を救った様なところがありますが、これからは如何にも私は「モヤシ」みたいに成って出無精して浮世から外れて長い冬を過すの、本当に愉しみです。
書いて書けないことはないけれど、歌詠みの一つでも出来る嗜みが出来れば好いナァ~と憧憬があります。
(〃゜ー゜〃)


今日から11月。
「紅茶の日」。
ロシア漂流記でお馴染の大黒屋光太夫が1791(寛政3)年11月1日の帰国の際に、女帝エカテリーナ2世から紅茶を贈られた由縁で制定されました。
∧_∧ ∧_∧
( ・∀・)(・∀・ )
、つ=||| )( と)
「犬の日」。
☆⌒ヽ♪
u・・u ♪
(=●=)♪
|  ̄ヽノ
∪∪ ̄∪ =3