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香妃 身体から芳しき香気を放った乾隆帝の寵姫 (1734~1788)

2017-08-19 10:45:16 | Weblog

中国。清王朝の華やかなりし頃、シルクロードのウイグル族に、身体から芳しい香気を放つと云う絶世の美女がいた。
やがて彼女は「香妃」として清の乾隆帝に寵愛されるが、そこには哀しくも切ない最期が待っていた。
異国の地で亡くなった伝説の美女の生涯とは、如何なるものだったのだろうか。

「身体からただよう芳香」

「美女」の定義には、容貌や性格、生き様など様々な要素があるが、
身体から自ずと放たれる芳香で相手を魅了すると云う女性は、そうは多くはないだろう。
その魅力で皇帝をも虜にした香妃は、中国西部のウイグル族・和卓(ホージャ)氏の娘だと言われている。
彼女は後に、ウイグル族の長ホージ・ハーンの下に嫁いだと伝えられるが、その美しさは清王朝にも鳴り響く程だった。
しかし、清がジュンガル(西モンゴルの遊牧部族)を没落させた時に夫は戦死し、未亡人となった彼女も拉致され、都へと連れて行かれた。

都で皇帝の前に突き出された彼女は、自分に死を賜る様にと願い出る。
だが、清の第六代皇帝乾隆帝は、その言葉も耳に入らなかった。彼女を前にして、その美しさに絶句したからである。
彼女の身体からは、甘くてエキゾチックな香りが漂っていた。
それは、砂ナツメの香りだとも言われているが、彼女の体臭は心地好く、 皇帝を甘美な世界へと誘ったのだった。

それからの香妃に対する皇帝の寵愛ぶりは、半端ではなかった。
皇帝は紫禁城内にウイグル式の宮殿を建て、アーチ型の屋根をつけたトルコ風呂も設けた。
また、彼女の美しさを保つ為、羊の乳で入浴させたと云う。
だが、香妃は皇帝になびこうとはしなかった。
それ故、皇帝は彼女の歓心を惹く為に狩猟に連れ出したり、皇帝と皇后、皇太后しか持っていない鍵まで与えて優遇したりした。
皇帝は、すっかり香妃に夢中になってしまい、政務も手に着かない有様だった様だ。

「傾国の美女の最期」

皇帝の香妃への愛を最も心配したのが、皇帝の母、孝聖憲皇太后だった。
中国では美姫に惑わされ、国を危うくしたと云う例は数多くあった。
息子と国の行く末を案じた皇太后は或る日、香妃を呼び出した。
皇太后はそこで、香妃が夫や一族を思い、短刀を隠し持って皇帝の命を狙っていることを知る。
皇太后は、そんな香妃に死を許した。
すると香妃は三度礼をし、皇太后が用意した毒をあおって倒れ込んだという。
その後、皇帝が駆け付けた時、そこには彼女の心地好い香りが漂っているだけだった。
皇帝は嘆き悲しみ、彼女を手厚く葬った。
彼女の遺体は、それから三年がかりで故郷のカシュガルに帰ったという。
そして、彼女はウイグル式建築の墓に入れられ、自分の一族と共に永遠の静かなる眠りについたのであった。

ただ、この香妃と云う名は、中国の正史には特に見当たらない。
その代わり、『清史稿』に見える容妃が、香妃に該当すると考えられている。
容妃は乾隆帝のジュンガル遠征後に入内した女性で、宮廷ではウイグル式の宮殿で暮らし、その習俗を保つことを認められていたという。中国の北京にある故宮博物館には、皇帝と彼女が狩猟に出かけた時の様子が描かれた絵画が所蔵されており、その習俗と面影を今に伝えている。この容妃は自害したと云う事実はなく、貴人から妃に昇格して、五十五歳の天寿を全うした。

            





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