石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

東日本大震災津波被災体験

2014年09月15日 | 活動

 

 写真は、石巻市門脇の自宅あとに立つオリーブさんです。

オリーブさんは、東日本大震災の津波で九死に一生を得る体験をされました。私達が小学校時代に慣れ親しんだ門脇地区、そこにお住まいでした。

その時の体験を綴って送ってくれました。

以下に紹介します。

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東日本大震災津波被災体験

2014/08 

 

 2011年3月11日午後2時46分、間をおいての2度の大揺れを伴う長い地震に、いつもと違うものを感じ、これは津波が来ると思ったのですが、あんな大津波とは予想だにしませんでした。

 私の家は石巻市門脇町の北上川の河口に近い所にあります。ランドマークを市立病院とすればその北西に位置しています。

 揺れが落ち着いた頃に、近所のガス屋さんに会いました。町内の一人暮らしのお得意さんの安否を気づかい、見回りに行くところだと言います。私も同じ門脇町のわが家よりもう少し北上川に近い所にいるおばとおじのことが心配だったので、行ってわが家に連れてきました。津波が来るとしてもそれほどでもないだろうから、よりわが家のほうが安全と思いました。

 ところが、家の中に入った途端、東側の窓から黒い大波が壁のように迫ってくるのが見えました。あわてておじおばと一緒に2階に駆け上がりました。

 2階の半分、私たちは3人一緒にテラスが見えないように覆いがついているほうにいたのでそれが防波堤になって波を避けてくれたので大丈夫だったのですが、金属製の柵になっていたほうは波が通過し、北側の窓が壊れ、私たちはそのまま家ごと東方向に流されました。そして家は、すぐ近くの石油配送センターのブロックの囲いの中にある、石油の備蓄タンクに引っ掛かって止まりました。

 備蓄タンクは15本ほどあったそうですが、残っていたのは4本だけでした。4本のタンクには石油が入っていたので、その重さで流されなかったようです。もしタンクがすべて流されていたら、家はタンクの場所に留まらずに、そのまま北上川の本流にのってどこまでも流されて、濁流にのまれてしまっていたことでしょう。

 その後、何度も余震と津波が繰り返し来ましたが、幸いにも大きなブロックの囲いの中に引っ掛かったので、家はそれ以上流されずにすみました。

 ほっとしたのもつかの間、しばらくしてあちらこちらでボンベの爆発音がして、火の手が上がるのが見えました。私たちの100mほど前の、市立病院の薬品センターも炎に包まれました。暗闇の中で、目の前のその炎が不気味にあたりを明るくしました。それは私たちを恐怖に落とし入れました。風向き次第ですぐにもこちらに飛び火しそうです。私たちは石油備蓄タンクという爆弾の上にいるようなものですから、火が付いたら吹き飛びます。

 はらはらどきどきしながら、いつここを脱出すべきか、その機をうかがいながら、まんじりともせず夜を過ごしていました。夜中の3時ごろでしょうか。津波の押し寄せる波が引いて落ち着いてきて、道路が光って見えてきました。

 早く安全な日和山に逃げなければと、この時を待っていましたので、急いでこの場を離れることにしました。私たちは靴を履いていませんでしたので、危険な瓦礫の中を行くため、家の中に残っていた毛布を敷きながら、その上を歩くことにしました。

 ちょうど八間道路と呼ばれる広めの道路に来たところで、おじおばの家が残っているのが見えました。中はどうなっているのか、私たちはその様子を見ようと近づきました。隣のSさんの家も残っていました。その2階に人の気配がし、Sさんのご夫婦が出てきました。2人も逃げないで、大変な思いをして地震と津波の中に残ったのでした。1階は波が通過していましたが、家は倒れないで2階が残っていました。

 私たちとSさん夫妻は、手を取り合って無事を喜び合いました。私とおじおばはひとまずおじおばの家で休んで、朝になってから一緒に称法寺に向かうことにしました。

 5時ころ、瓦礫の中を歩いている人がいたので、「日和山に上がれるだろうか」と聞いてみると、靴と軍手がなければ無理と言われたので、とりあえずSさん宅に残っていた靴を借りることにしました。私とおじおばは靴を履いていませんでしたので。軍手はおじおばの家の2階にありました。

 明るくなるにつれ、信じられないような瓦礫の山が目の前に広がっています。私たちは瓦礫とヘドロの中を、夢中で安全な所を目指しました。Sさんのご主人が先導して、棒で足元を探って安全を確認してくれた後を、軍手で保護した手で瓦礫の中で安全を確保しながら、少しずつ前へ進みました。普通なら10分ぐらいで行く道を、5人で40分かかって進みました。それにしてもSさんのご主人がいてくれたことは、なんとも心強いかぎりでした。

 寒さと不安の中を必死で歩きました。午前中になんとか日和山にたどり着けたことは、不幸中の幸いでした。助かったと思いました。

 ひとまず私たち3人は、日和山に住む親戚の家に身を寄せました。被災してすぐは、日和山もライフラインが寸断されて瓦礫とヘドロの中で孤立していました。水道も電気も止まっていましたので水の確保が難しく、市民は大変な思いをしました。私もおばも大街道浄水場(通称水道局)に、空のペットボトルを持って6時間並びました。

 被災4日目に、仙台の息子が迎えに来たので、私はその後は仙台に避難しました。

 私は、避難所ではなく親戚や息子の家に避難できたので、食料や寒さでそれほど苦労はしなかったのですが、多くの人は被災後すぐから食べ物・飲み物・トイレ・寒さなど大変だったと聞きます。

 同じ門脇町の町内の方々の大半が、避難所で不自由な生活を強いられていることを思うとき、胸を締め付けられる思いでした。申し訳ないと思いました。

 また、私たちの家族や親戚は誰一人欠けることなく無事だったことは幸いでしたが、友人や町内の知人たちをたくさん亡くしたことはとても悲しいことです。地震の後にお会いしたガス屋さんも、今も行方不明です。

 3年以上たつ今、私はまだ仮設扱いの借り上げ住宅に住んでいますが、ようやく再来年にはわが家が建つ見込みができました。

 たくさんの人命が失われたこの地震と津波の経験を踏まえ、その教訓を、ほかの地域の方たちにも伝えていかなければならないと、今は強く思っています。

 石巻は50年程前にチリ地震津波で被害に遭いましたが、今回ほど大きな被害ではありませんでした。その過信が、企業や学校で被災して団体で行動した人たちと違って、家で一人でいた人たちに避難する勇気を起こさせなかったのかもしれません。

 それは私自身を含めた反省点です。昔からの言い伝えに、「津波てんでんこ」というのがあります。津波が来たらその場からそれぞれすぐ逃げなさいということです。

 現在の日本は、これから大地震と津波が来ると予測されています。また、豪雨で川が氾濫したり山崩れが起こったりします。日ごろから災害の可能性を予測して、緊急時に何が必要か、どう逃げるか、準備しておくことが大切です。

 

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 オリーブさんの息遣いが聞こえるような、その場にいた者だからこその言葉が心に迫ってきます。

 信じられない光景とは、まさにこのようなものなのでしょう。門脇小学校が焼けたと聞いただけで私にはショックで、でもその状況がよく呑み込めなかったものですが、オリーブさんの体験を読むとその時の様子が浮かび上がってくるような気がします。

 オリーブさんは、最後に書いてあるように実際に自分の体験を、様々な機会に伝えていると聞いています。

その生の言葉は何よりも強く人々の心に響くことでしょう。是非ともこれからも伝え続けてほしいと思います。

 オリーブさん、本当に貴重な体験をまとめていただいてありがとうございます。「津波てんでんこ!」この言葉をみんなが知っているようにしたいものですね。

 


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2 コメント

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きのうも大きい地震が…… (どんぐり)
2014-09-17 23:28:34
きのう、関東に震度5弱の地震があって、みんな緊張しました。誰かが近じか茨城にと予測していたので、やっぱりという思いでしたが、水のありかとか、持ち出す予定のリュックとか、もう一度点検しました。
私のところは海に近くはないので、津波より火事が怖いです。
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大きかったね (まつぼっくり)
2014-09-21 16:34:43
 震度は5以上になると怖いですよね
仙台はあまり揺れなかったようで、私は夕方のニュースで分かったくらいでした。
 災害も、台風や竜巻・洪水などいろいろあり、よく考えてリュックの中身を再検討する必要があるかもしれないと思いました
 
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