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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
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Lake Griffin
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夏野菜のマリネ

夏野菜のマリネ(赤黄パプリカ、茄子、ズッキーニをグリルで焼き、オリーブオイル、バルサミコ酢、塩胡椒他ハーブミックスを入れたマリネ液でよく混ぜる。生ハム、パルメジャーノの薄切りをのせる)
一昨日のミネストローネの残り。
Nuits-St-Georges, 2000, Domaine Machard de Gramont

2005-05-15 21:23:35 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ヒトはなぜペットを食べないか』

山内昶、2005、『ヒトはなぜペットを食べないか』、文春新書

山内昶先生には、大学時代第二外国語でフランス語を教わったわけでもないのに、キャンパスで「どうしてますか」と声をかけて頂いて恐縮したことがある。当時小さな大学だったので、先生はおそらくかなり学生のことはご存じだったのだろう。先生はいつもにこにことしておられ、細身長身のジェントルマン(フランス流紳士であるから、他の呼び名もあろうが、フランス語を習わなかったと言うことでお許しを)であった。それももう、30数年前のことで、先生の健筆には脱帽である。
本書は、雑食性で、基本的には何でも食いの人類が、現代なぜペットを食べないかについて、まずは歴史をひもとき、犬猫をいかに食べてきたのかについて明らかにする。動物を現代のペットのように飼ってきたのは歴史的には、たとえば、猫の家畜化が紀元前のエジプトに始まるほど古いことであるのだが、一方、歴史の中から犬猫を食べた話を渉猟し、さらには、獣姦や異類婚譚をひき、人類のタブーのメカニズムから「ペットをなぜ食べないか」について説き明かす。
本書によれば、ペットの語は16世紀以前には存在しなかったという。実体としてのペットはありながらも、ペットを指す語がなかったというのは、奇妙に思えるが、そうであったらしい。ペットという概念は近代の産物であると本書は断ずるのである。ペットという語が生まれるより前、中世にあっては権力を握る王侯の野獣振りが際だち、近代国家形成とともに、次第に優雅で洗練された宮廷人に変貌を遂げてきたという。エリアスのいう「文明化の過程」が進行し「動物的特性」をいかに排除するかが政治的課題となったのであるという。
そうした過程と平行して、「ペット」動物の野獣性の緩和もどんどん進行する。人間からの獣性の追放と「ペット」からの野生の追放は同時並行的に進んだのである。最近の小型の「トイドッグ」の隆盛はこうした動きの最終局面であるか。また、本書では、動物が持っていた「聖性」もまた失われ、世俗化も進行したと指摘する。すなわち、エジプトにおいて猫が事実上ペット化される際には、猫の持つなぞめいた性質、たとえば、闇夜でも行動できるとか、少ない光を反射する瞳孔であるとかの故に、「聖性」をもつ「ペット」として飼育され、信仰の対象であったにもかかわらず、また、ライオンやヘビなどをペットとして飼育するのが、かれらのもつ強烈な力(野獣性)がもつ聖なる力を身近なものとする事を目的としていたにも関わらず、近代におけるペット飼育は、そうした力をそぐ脱「聖性」が特徴的であるという。
これらは、何もペット飼育に限らず、脱獣性と世俗化は近代社会の本質であり、ペット飼育自体が、近代社会の成立と密接に関連していることの証左であるということである。
本書では、さらに、近代社会の究極の「ペット」である電子ペットに言及する。脱獣性と世俗化の極致として電子ペットが出現したのである。
本書は、構造主義者である著者の視点に基づき論述され、また、著者のこれまでの出版物と同一の路線ではあるが、ペットと食をあわせて論述した点、まさに、構造主義の真髄といったところであろうか。
この文章では、食のことについて、あまりふれていないのだが、本書のポイントは、ペットと食についての関わりであるので、興味の節は自分自身で読んで著者の主張する点について吟味して頂きたい。

ヒトはなぜペットを食べないか

文芸春秋

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2005-05-15 10:51:32 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )