Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

東京都写真美術館「日本写真の1968」感想

2013年06月04日 12時45分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
            

 5月29日に東京都写真美術館を訪れた。「写真のエステ」とともに、「日本写真の1968」展を見た。というよりももともと訪れた目的がこれであった。この展覧会の趣旨というか展示の基本的な理念は以下の案内に示されている。

1960年代後半は、戦争、革命、暗殺など、世界中のあらゆる領域でこれまでの枠組みに対して新たな行動が勃発した時代でした。写真においても、近代的写真が構築した「写真」の独自性とそれを正当化する「写真史」への問いかけが始まりました。特に1968年は、今日の「写真」の社会的な枠組みを考える上で重要な出来事が集中して現れました。
本展では「写真100年-日本人による写真表現の歴史展」、「プロローグ 思想のための挑戦的資料」、「コンポラ写真」、「写真の叛乱」の4つのキーワードから展覧会を構成し、1966~74年の日本で「写真」という枠組みがどのように変容していったかをたどり、「写真とは何か?」を考えます。

 この趣旨をもとに、1960年代後半から1970年代に向かう写真の動向を展示してある。この感想は写真史にも疎いし、個々の表現者の言語による表現も目を通したことのない私の、あくまでも感覚的な直感的な、そして私的な感想である。トンチンカンがあるとしてら不勉強ゆえである。容赦願いたい。

 この展示で面白い指摘だと思ったのは「若い写真家たちや学生たちは、学生運動であれば学生側、三里塚であれば闘争する農民の側に立って撮るということが基本的な姿勢であり、だからこそ彼らは当事者に受け入れられて、現場で自由に撮ることが出来ました。ところが(フランスのパリ5月革命、アメリカのベトナム反戦運動では)それらを記録したものは雑誌社や新聞社のカメラマンが撮った報道写真しか残っていない」という指摘が書かれてある。
 1960年代後半の激動が、芸術表現の歴史からの視点ではこのような特徴があったのかとあらためて認識した。当時の写真ではいわゆる「アレ・ブレ・ボケ」と揶揄的に云われてきた試み、方法だが、現在の目で見ると極めて斬新で動的な表現に見える。かつ被写体の揺れる認識、不安な意識を一瞬で閉じ込めていると思う。
 表現意識が撮影する主体の技法を飛び越えて、それによって被写体との信頼関係を保ちながら作品として成立している。社会や芸術運動に対して溢れかえるような、ある意味過剰で非妥協的・非和解的な対置理念をかざした、表現意識過剰な作品がこのような技法を背景に成り立っていたのだと感ずる。
 表現者としての撮影者、被写体の身体表現が複雑に絡み合って、さらに鑑賞者の視点がそこに混ざり合って、三者の関係が成立している。実に動的で多次元の空間が現出していると思う。
 その中で私は中平拓馬という写真家のいくつかの写真に目を惹かれた。中平拓馬は学生運動に対してもかなりのアジテーターとして振舞ったようだが、そのようなあり方とは別に、私はあの過剰に「アレ・ブレ・ボケ」の写真ではあるものの、写真家の醒めた、計算した構図への志向、明と暗の対比に基づく画面構成を感じ取った。
 後年、といっても1973年というごく近い時代だが、彼が「撮り手の情緒を廃したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した」といわれるが、私にはその軌跡がとてもよくわかるように思えた。作家自身はそんなに解られてたまるか、と怒るだろうが、これが時間の累積の結果としての2013年から見た私の直感的な感想だ。

 「アレ・ブレ・ボケ」という社会性を帯びた写真は、この中平拓馬のような表現の深化のほか、荒木経惟の「センチメンタルな旅」などのように進展していく。これは「荒木経惟の作品から感じる気分が、井上陽水の「傘がない」を聴く時のそれととてもよく似ている」と解説にあるとおりだと思う。

 その他感想や感慨をもった作品はとても多かった。やはり同時代性というものであろう。この時代に社会への目を向けたものとしての共感ないし不満、肯定と否定の交じり合った感慨、充足感と不達成感、高揚と沈思‥が時間を飛び越えて脳髄から苦味を携えて滲み出て来た。
 それらは私の脳の中に閉じ込めておくしかないのだが、ひとつだけ述べたい。私は始めて知ったのだが、「今回初めて全日本学生写真連盟の学生・OBの集団撮影行動による」写真群。「集団的無名性によって撮影・発表された作品」も面白い。若い写真家たちの模索の作品も多くあり、「アレ・ブレ・ボケ」だけにはおさまらない多様な表現が垣間見えたように感じた。具体的に文章化できる力量がないのがもどかしいのだが、被写体と撮影者との関係のとり方に悩んだらしい視点が感じられるなど私には刺激になった。企画者の金子隆一という方のあるいは当時の関係者の中での掘り起こしなのだろう。
 当時は各大学ごとのさまざまなサークルの全国的な組織があった。写真についてもそのような組織があったのだろう。きっと今ではそんな横断的な組織など存在しないだろうし、あっても意味はないのだろう。フィルム写真もなくなり、携帯などのデジタル写真というものが主流となり、各自が徹底的に私的な写真表現に固執しているともいえる状況だ。
 写真に限らず芸術表現はそれぞれ極私的なところにその方向性を見出している。こんなときに全国的な統一理念に基づく写真を媒介とした社会運動など成立する要素などありえないと思われる。
 しかし企画者なりの無意味を承知のひとつの挑発なのかもしれない。他者からみると、しかし懐古趣味にはならない当時の視点と模索がそれなりに認識できたような気がする。





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17 コメント

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丸山実に付いて教えて下さい (通行人)
2013-08-27 16:27:33
>丸山実著『「月刊ペン」事件の内幕 狙われた創価学会』(幸洋出版)を読む。 間もなく読了。学会員ではないジャーナリストの、真実への飽くなき探究心、正義を叫び 抜く執念、言論人としての誠実さ、取材力、説得力、文章力を ...

丸山実がどのくらい真実?誠実さ?書いたかわかりませんが何で全共闘の左翼が宗教団体の肩入れ?したのですかね?噂真の岡留安則と喧嘩別れしたし。あと晩年に新雑誌Xにオウム援護記事書いたり、コスモ教団の深見のスキャンダル潰し?記事とか書いていましたよね?何ででしょうか?丸山実に付いて知っていたら教えて下さい。
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途中から「揚水」になってます (大納言)
2013-06-06 12:01:15
揚水発電ですな。原発を補完する無駄なシステムの代名詞みたいに言われますが……。

陽水では「心もよう」が好きです。由紀さおりの「恋文」と同じようなフィーリング。「アズナブールって何?」と「入間川」さんに聞いたことを思い出します。
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陽水か (通りがかり人)
2013-06-06 04:08:58
友人の家で、買ったよ、と聴かせてくれたのが陽水のかさがないでした。揚水の高音の伸びる声が好きになれなかった。ディランから始まって、日本では友部正人、拓郎、泉谷、野太い声がもててた。それは世羅とか、柳ジョージとかに引き継がれたり、上田正樹になど、流れていった。憂歌団など極め付きだった。そんな中で、揚水の高音は私はどうも好きではなかった。
 世の中の動きは、あーそうなんだ。だけど俺は今あせってる。急がないと、女が、どこかへ行っちまう。政治どころじゃない。世間どころじゃない。俺は俺のことをやる。それが今の俺だ。と、解釈してました。揚水の曲で良かったのは探し物は何ですか。循環コードの、ノリがいい。バックのミュージシャンも、当時のピカイチばかりだったろう。あまり聴いてないのにえらそう過ぎたかな。優秀なミュージシャンであったことは確かですがな。
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自分探しの歌では? (Fs)
2013-06-05 23:11:14
『祭りの後の自分探しの歌と、私は理解していました。
ちがってるかな?
特に自信はないですけど、ずっとそう理解してました。
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陽水の歌の「傘」は「自己」のこと (大納言)
2013-06-05 23:06:56
そ、そーでしたか。するとこの歌は自己がないってことですか?
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寺山修司が出てきましたか (Fs)
2013-06-05 14:56:15
もう私には語る資格がなくなったような・・・・

陽水の歌の「傘」は「自己」のことだとの理解だけでとどまってます。
金子隆一氏が何を言わんとしているか、これ以上は?です。
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さて……? (大納言)
2013-06-05 10:12:39
プロテストソングもほんの少しあったけど、日本の歌はほとんどが男女の愛の絶対視でした。写真はジャーナリズムの時代で、告発はともかく社会を無人格のカメラが撮っていたのは確かでしょう。荒木は「センチメンタルな旅」で「私」が「私の関係」を撮るという方法を突きつけました。そこには「私」に対する確信的な幻想があるのに対し、陽水の歌は数ある風景の1つにすぎないような気がします。荒木の写真は、寺山の短歌における私性の拡散にこそ(逆説的に)対応するのではないでしょうか。
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陽水 (Fs)
2013-06-05 09:59:41
私は陽水はほとんど聞いたこともなかったのですが、あの歌は新鮮に聞こえ好みでした。歌もうまくなったように思いました。
その後は聞くこともなかったですが。
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うんぬ、出る幕ではない (通りがかり人)
2013-06-05 09:36:29
思想的本は、ほとんど手に取らなかった。恥ずかしいくらいにわからない。わかったふりさえできず、えらそうにしていた? 陽水あたりから急速に権力へのいどみが薄れたのは、そうかもしれない。
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荒木経惟と井上陽水 (Fs)
2013-06-05 00:25:50
葦原の山姥様のご指摘のとおりの解釈でよろしいかと思います。
多分企画者の金子隆一の発言はそのような意味合いだと思います。
私も同様に理解しました。
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『現代の眼』3 (葦原の山姥)
2013-06-04 23:57:54
『現代の眼』は、竹中労を読みたくて購入していました。
1960年代に生まれた私からすると、総会屋雑誌と言うより左翼崩れの雑誌の印象でしたね。
丸山実はその後、『新雑誌X(エックス)』の編集長になりましたが…あれは“ケッタイな”としか言い様のない雑誌でした。
試しに1~2冊買って、放り出した記憶があります(苦笑)。


アラーキと陽水。
荒木経惟の写真は私小説のような雰囲気がありますし、“傘がない”は四畳半フォークのはしりですよね。
それまでは社会構造や権力を批判・告発する手段だった写真や音楽(フォークソング)が、身近な狭い世間を表現の対象するものに変わった…ということですか。
「その後」の世代である私には、それ以上は何とも…。
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『現代の眼』2 (大納言)
2013-06-04 22:59:19
『現代の眼』は内容はともかく、総会屋の雑誌として知られていましたね。83年で休刊。その後読者は『流動』に移ったのかな。なおもう1つの『現代の眼』は都写美ではなく近代美術館の機関誌でした。
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わかるようでわからない (大納言)
2013-06-04 22:50:48
「荒木経惟の作品から感じる気分が、井上陽水の『傘がない』を聴く時のそれととてもよく似ている」……どういうことですかな?
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大納言様、葦原の山姥様 (Fs)
2013-06-04 18:58:10
「現代の眼」の編集者でしたね。懐かしい雑誌です。私にはさっぱり理解できない言語が溢れていましたが、当時は理解できたような顔をしていました。
その後は意識不明・記憶喪失などを経て、回復後、南島の写真集などを出版されたようです。
1977年9月11日未明、昏睡状態に陥る。言語能力と記憶に障害が残る。
1979年、「沖縄-写真原点I」で復活。
1983年、復帰後第1作写真集『新たなる凝視』。
2003年、横浜美術館で本格的個展「中平卓馬展 原点復帰—横浜」を開催。
現在、横浜市内在住。(私Fsのジョギング・ウォーキングコースの傍のようです)
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編集者でした (大納言)
2013-06-04 17:46:17
在籍は63年~65年の足かけ3年だったようです。失礼しました。
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『現代の眼』 (葦原の山姥)
2013-06-04 17:15:01
編集長は丸山実では…?
もっとも、私が購読していたのは1980年代でしたから、それ以前のことはわかりませんが。
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中平拓馬は (大納言)
2013-06-04 16:23:18
『現代の眼』の編集長をしてたのでは(『現代の眼』といっても都写美のパンフではありません)。後にアル中である時期の記憶を完全に失い、写真集『新たなる凝視』を上梓します。
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