風呂が沸くまでの間、石田波郷の句集をめくってみた。冬の季語を順繰りに追っていくうちに次の2句が目についた。
夕方から夜にかけてのウォーキングで見た景色や、妻と近くのコンビニに翌日の朝に飲む牛乳などを買いに出た時の情景を思い出した。特に優れた句には思えなかったが、自分の体験が目に浮かぶ句は、それはそれで楽しい。
★街みれば枯木ははやも夕づける 石田波郷
★妻と二人枯野の月にかくれなし 石田波郷
特に2句目、月は多分真上にあるのだろう。満月に近い月だとおもう。蕪村の「月天心貧しき街を通りけり」を思い出す。この蕪村の句、中学校の頃、国語の先生に街を通るのは作者ないし人が通るのを作者が眺めている情景と教わった。高校のとき、別の先生から「街を月が照らしながら傾いていく」との解釈を披露された。私はそれだと時間の流れが長すぎて、すっきりしなかった。ここはやはり人がひっそりと通っていく情景だという思いが強い。
石田波郷もそのように解釈していたのではないだろうか。
夕方から夜にかけてのウォーキングで見た景色や、妻と近くのコンビニに翌日の朝に飲む牛乳などを買いに出た時の情景を思い出した。特に優れた句には思えなかったが、自分の体験が目に浮かぶ句は、それはそれで楽しい。
★街みれば枯木ははやも夕づける 石田波郷
★妻と二人枯野の月にかくれなし 石田波郷
特に2句目、月は多分真上にあるのだろう。満月に近い月だとおもう。蕪村の「月天心貧しき街を通りけり」を思い出す。この蕪村の句、中学校の頃、国語の先生に街を通るのは作者ないし人が通るのを作者が眺めている情景と教わった。高校のとき、別の先生から「街を月が照らしながら傾いていく」との解釈を披露された。私はそれだと時間の流れが長すぎて、すっきりしなかった。ここはやはり人がひっそりと通っていく情景だという思いが強い。
石田波郷もそのように解釈していたのではないだろうか。