東京国立博物館の「栄西と建仁寺」展の感想で私は次のように記載した。
「また小野篁・冥官・獄卒立像は面白いものであった。等身大よりも一回り大きいと感じる。小野篁は長身であったというがあんなに大きかったのであろうか。それよりも小野篁が閻魔大王の業務を補佐していたという話がどのようなものなのか、知りたいものである。」
知らないということは免罪符ではないが、書きたいことを書いてしまう。しかしこの感想が本日の講座につながっていたとは思いもしなかった。
本日の講座ではこの小野篁のエピソードを教えてもらった。インドのヤマ神が中国で閻魔王として道教の最高神のひとり泰山府君と同化し、地獄の裁判官とする見方が確立したことを教わった。小野篁が閻魔王の補佐を買って出た伝承、当時の政府の首班藤原良相の病気に際し閻魔王にとりなしを図ったことの伝承化と、そして足利学校では創建伝承に小野篁が登場すること、足利学校では孔子像とならんで小野篁の像が祀られていることなども教えてもらった。
地獄思想の普及と六道輪廻思想-建仁寺の塔頭であり「六道の辻」に在った六道珍皇寺-鳥辺野という埋葬地に埋葬する最後のお別れの寺としての珍皇寺-閻魔信仰-地獄と現在を往来した小野篁伝承との結びつき、という流れについても示唆を受けた。
さらに、篁が無くなった時の伝記に「背丈が6尺2寸」とあり、188センチ近くもあったことが記されているらしい。あの建仁寺の像(1689年)はそれを踏まえているようだ。私が「等身大より大きいと感じた」のは、等身大であった。この大柄の身体も伝承のひとつの原因であったかもしれない。
この神話化の過程はとても興味深い課題だと感じた。ひとつの大きな研究材料になると理解した。
学習というのは楽しいものである。今昔物語・宇治拾遺物語など小野篁に関係する個所のコピーも貰った。もう一度じっくり読んでみようと思う。
明日の講座「アジアの視点その5」は「成長するインドの民主主義-グローバルとローカルの間-」という演題となっている。
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「また小野篁・冥官・獄卒立像は面白いものであった。等身大よりも一回り大きいと感じる。小野篁は長身であったというがあんなに大きかったのであろうか。それよりも小野篁が閻魔大王の業務を補佐していたという話がどのようなものなのか、知りたいものである。」
知らないということは免罪符ではないが、書きたいことを書いてしまう。しかしこの感想が本日の講座につながっていたとは思いもしなかった。
本日の講座ではこの小野篁のエピソードを教えてもらった。インドのヤマ神が中国で閻魔王として道教の最高神のひとり泰山府君と同化し、地獄の裁判官とする見方が確立したことを教わった。小野篁が閻魔王の補佐を買って出た伝承、当時の政府の首班藤原良相の病気に際し閻魔王にとりなしを図ったことの伝承化と、そして足利学校では創建伝承に小野篁が登場すること、足利学校では孔子像とならんで小野篁の像が祀られていることなども教えてもらった。
地獄思想の普及と六道輪廻思想-建仁寺の塔頭であり「六道の辻」に在った六道珍皇寺-鳥辺野という埋葬地に埋葬する最後のお別れの寺としての珍皇寺-閻魔信仰-地獄と現在を往来した小野篁伝承との結びつき、という流れについても示唆を受けた。
さらに、篁が無くなった時の伝記に「背丈が6尺2寸」とあり、188センチ近くもあったことが記されているらしい。あの建仁寺の像(1689年)はそれを踏まえているようだ。私が「等身大より大きいと感じた」のは、等身大であった。この大柄の身体も伝承のひとつの原因であったかもしれない。
この神話化の過程はとても興味深い課題だと感じた。ひとつの大きな研究材料になると理解した。
学習というのは楽しいものである。今昔物語・宇治拾遺物語など小野篁に関係する個所のコピーも貰った。もう一度じっくり読んでみようと思う。
明日の講座「アジアの視点その5」は「成長するインドの民主主義-グローバルとローカルの間-」という演題となっている。
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創建伝承にも名があり、ハテ??と思ったものでした(苦笑)。
同時代の人々からは、文武に秀でているだけではなく神通力のようなものも持つと思われていたようですから、京都から遠く離れた足利の地でその名を拝借しようと考える人々がいても不思議ではないかもしれません(笑)。
足利学校、建物の殆どは復元されたものですが、隣接する鑁阿寺と共に一度は訪れて損はないと思います。
湘南海岸の江の島から境川にそって真北に行くと今の府中に出ます。さらに山沿いに北上すると川越から熊谷をとおって足利までまっすぐです。
716年には茅ヶ崎近辺をとおって高麗王族が北上し今の高麗郡(現日高市)に拠点を築いたということです。有名な高麗神社があります。ここも訪れてみたいです。
そして寒川神社も高麗一族の神社と関係するそうで、付近は高座郡の名があり、それも高麗にちなむ名残と云われます。
足利氏は真っ直ぐ南下して鎌倉の地に行くにあたり、古代の官道の名残りを使ったらしいですね。
古代・中世とで歴史に登場した江の島から足利までのルートはについて、高麗神社の宮司の関係者が小説を作ったという話がありました。書名は残念ながら失念しました。
長々と失礼しました。