Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は会議&作業日

2020年05月17日 22時04分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日27.5℃もあり、7月上旬の暑さであったらしい。明日は23℃の予報で夜からは雨との予報である。

 本日買い物につきあい、郵便物を受け取りに郵便局まで往復。かなり歩いた。買い物をしたスーパーではかなりの人出で混雑。しかも14時近かったけれど、通りかかったハンバーガーのチェーン店の店内はぎゅうぎゅう詰めで店外まで間隔を開けずに並んでいた。
 サンドイッチを注文した喫茶店は空いていたので助かった。我が家では子どもが小さい頃も、フライドチキンもハンバーガーも食べさせなかったので、これほど切実な食べ物とは理解できなかった。当時も今も、それらへのこだわりを示すおとながいることに違和感を覚えている。

 明日は久しぶりに退職者会の会議。メール作業がある。ニュース外印刷物4種類ほどを同封する予定。40名が集まれば作業もそれほど時間はかからないが、今の新型コロナの感染状況下では集まる人数も少なくなる見込みである。少し時間がかかるが、やむを得ない。100人近く入る広い会場で間隔をあけて陣取るしかない。
 傘もリュックに入れていくことになりそうである。

 


夏めく

2020年05月17日 17時35分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★夏めくや庭土昼の日をはじき      星野立子
★蜂ぶらと脚下げて飛ぶ夏めく日     上野章子
★仰ぎ見る窓みなやさし夏めく日     飯田龍太

 「夏めく」には少し日が立ち過ぎたかもしれない。あるいは立夏の期間だから今の季節という主張もある。何を「夏めく」とするか、が俳句だという逆転の指摘もある。

 第1句、土は光を吸収するものなのだが、ある角度から見ると反射光が眩しいことがある。多分梅雨前の湿気の少ない日、地面も乾燥しているときに感じる「夏めく」。

 第2句、第1句よりもこちらの句のほうが私には「詩」を感じる。この蜂は青空と白い雲を背景に飛んでいる。観察の細やかさと同時に、孤独な蜂の営みが空をバックに浮き出てくる。鉢に作者は自分の人生を重ねて見ている。何も事件は起こりそうもない情景に孤独の影が浮かんでくる。

 第3句、梅雨明けの強烈な太陽の陽射しは、仰ぎ見る人を刺す。この時期の窓の反射光には受け入れてもらえそうな気がする。読む人にとっては、「窓」はひょっとしたら「社会」の喩かもしれない。

 本日はわたくしの勝手読みの3句である。


「雨の言葉」(立原道造)

2020年05月17日 02時33分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 結局日付が変わっても降っていた昨日。ようやく1時頃に降りやんだようで音かしなくなった。
 眠れぬまま、「雨」についての詩をいくつかの詩集から探してみた。こんな詩が目に入った。岩波文庫の「立原道造詩集」には1935~36年にかけての作品を収めた「拾遺詩編」に入っていた。

  雨の言葉
                              立原道造

わたしがすこし冷えてゐるのは
糠雨のなかにたつたひとりで
歩きまはつてゐたせゐだ
わたしの掌は 額は 湿つたまま
いつかしらわたしは暗くなり
ここにかうして凭れてゐると
あかりのつくのが待たれます

そとはまた音もないかすかな雨が
人のゐない川の上に 屋根に
人の傘の上に 振りつづけ
あれはいつまでもさまよひつづけ
やがてけぶる霧にかはります……

知らなかつたし望みもしなかつた
一日のことをわたしに教へながら
静かさのことを 熱い昼間のことを
雨のかすかなつぶやきは かうして
不意にいろいろとはかります
わたしはそれを聞きながら
いつかいつものやうに眠ります

 これまで読んだことが無く、初めて読む作品なのでキーボードをたたきながら意味をさぐった。

 雨などの自然現象に対してこの詩人は受け身であるが、その刺激を受け入れることに躊躇がないということがわかる。それは第3連の「知らなかつたし望みもしなかつた一日のことをわたしに教へながら」に表れている。
 作者は受け身である。異論も自己の主張も放棄して「いつものやうに眠り」につく。異論も主張もない、そればかりか自分は「雨」をきっかけに何かを考えることをはじめた、ということもない。
 このような自己放棄を若い頃の私が読んでいたならば、その視点を否定して読むのをやめたかもしれない。でも今は、受け身に徹して楽しむ、ということもまた楽しくなった。

 第1連、「いつかしらわたしは暗くなり」にも始めは引っ掛かった。周囲が暗くなったことを「わたしは暗くなり」と周囲と自分の境界意識が希薄である。これもまた不思議である。

 また第2連、「あれはいつまでもさまよひつづけ」も不思議な表現だと思った。「あれ」は「雨」のことであるが、このフレーズを「雨はいつまでもさまよひつづけ」とするのは雨を直に擬人化した表現である。この表現であれば、「雨」と「作者」は分離している。しかしあえて「あれはいつまでも‥」とすると、雨を擬人化するほどには作者と雨が分離していない印象を受ける。ここでも自然と作者とが未分化に処理されている。

 この未分化は作者があえてこの詩のためにとった視点であろうと理解したい。

 自然観照の仕方の提示が、意外と古典的な和歌の世界を引きづっているのかもしれない、などと結論付けるのは早計だけれども、印象として記しておくのも悪くない。「自己」の提示を避ける必然は、どういう背景によってもたらされたのか、興味がある。