結局日付が変わっても降っていた昨日。ようやく1時頃に降りやんだようで音かしなくなった。
眠れぬまま、「雨」についての詩をいくつかの詩集から探してみた。こんな詩が目に入った。岩波文庫の「立原道造詩集」には1935~36年にかけての作品を収めた「拾遺詩編」に入っていた。
雨の言葉
立原道造
わたしがすこし冷えてゐるのは
糠雨のなかにたつたひとりで
歩きまはつてゐたせゐだ
わたしの掌は 額は 湿つたまま
いつかしらわたしは暗くなり
ここにかうして凭れてゐると
あかりのつくのが待たれます
そとはまた音もないかすかな雨が
人のゐない川の上に 屋根に
人の傘の上に 振りつづけ
あれはいつまでもさまよひつづけ
やがてけぶる霧にかはります……
知らなかつたし望みもしなかつた
一日のことをわたしに教へながら
静かさのことを 熱い昼間のことを
雨のかすかなつぶやきは かうして
不意にいろいろとはかります
わたしはそれを聞きながら
いつかいつものやうに眠ります
これまで読んだことが無く、初めて読む作品なのでキーボードをたたきながら意味をさぐった。
雨などの自然現象に対してこの詩人は受け身であるが、その刺激を受け入れることに躊躇がないということがわかる。それは第3連の「知らなかつたし望みもしなかつた一日のことをわたしに教へながら」に表れている。
作者は受け身である。異論も自己の主張も放棄して「いつものやうに眠り」につく。異論も主張もない、そればかりか自分は「雨」をきっかけに何かを考えることをはじめた、ということもない。
このような自己放棄を若い頃の私が読んでいたならば、その視点を否定して読むのをやめたかもしれない。でも今は、受け身に徹して楽しむ、ということもまた楽しくなった。
第1連、「いつかしらわたしは暗くなり」にも始めは引っ掛かった。周囲が暗くなったことを「わたしは暗くなり」と周囲と自分の境界意識が希薄である。これもまた不思議である。
また第2連、「あれはいつまでもさまよひつづけ」も不思議な表現だと思った。「あれ」は「雨」のことであるが、このフレーズを「雨はいつまでもさまよひつづけ」とするのは雨を直に擬人化した表現である。この表現であれば、「雨」と「作者」は分離している。しかしあえて「あれはいつまでも‥」とすると、雨を擬人化するほどには作者と雨が分離していない印象を受ける。ここでも自然と作者とが未分化に処理されている。
この未分化は作者があえてこの詩のためにとった視点であろうと理解したい。
自然観照の仕方の提示が、意外と古典的な和歌の世界を引きづっているのかもしれない、などと結論付けるのは早計だけれども、印象として記しておくのも悪くない。「自己」の提示を避ける必然は、どういう背景によってもたらされたのか、興味がある。