Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

パソコン前で草臥れた梅雨の一日

2016年06月25日 22時52分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝から19時までかかって二つの美術展の感想をアップした。とてもくたびれた。パソコンの前に坐って作業をしているといつの間にか時間が経ってしまう。ただし90分に一度位はお茶を飲んだりするためにパソコン前を離れた。それがなければ肩が凝ってつらい目に遭う。それでも本日は肩がだいぶ凝った。
 明日から一泊で出かけるので、本日中に更新したかったのでとりあえずホッとしている。

 本日は朝から湿気を多く含んだ風が強く、またパソコンの前に一日座り込んでいた。ウォーキングに出かけたかったが諦めざるを得なかった。最高気温は予想は30℃だったものの13時くらいに28.6℃でとどまった。風は朝6時に記録した12.5が最高値であった。感覚としては朝よりも夕方の方が風が強かったと感じたが‥。
 南東の方の空に一部雲の切れ目があるが、9割り方は雲が空を覆っている。星は残念ながら見ることが出来ない。
 明日・明後日は晴れてほしい。

★梅雨の蝶妻来つつあるやも知れず    石田波郷
★抱く吾子も梅雨の重みといふべしや   飯田龍太
★荒梅雨や山家の煙這ひまわる      前田普羅
★またたきは黙契のごと梅雨の星     丸山哲郎



「いま、被災地から」展(藝大美術館) その2

2016年06月25日 18時46分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




 まずは宮城県美術館・岩手県立美術館の収蔵品で懐かしく再開したものから、松本俊介の「画家の像」(1941)、「山景(岩手山)」(1928)、「盛岡風景」(1941)の3点。「山景(岩手山)」は松本俊介が16歳の時の作品だが、松本俊介らしいタッチである。「盛岡風景」は「画家の像」と同じ1941だが、同じ画家の手になる作品とは思えないと以前見た時も感じた。二つの作品、気分としては対照的な作品である。画家が構図だけでなく、色彩効果にも大いなる関心を示していたと了解した作品でもあった。



 また荘司福の作品も宮城県美術館にいくつかあったはずである。実はこの「祈」のポストカードを手に入れたいのだが、ミュージアムショップで探したがなくて断念していた。次回仙台を訪れたら再度探して手に入れたい。荘司福は仙台を離れた後、横浜に住んだようで横浜美術館にも作品が2点はある。庄司福の作品をはじめて見たのはここの宮城県美術館であった。



 おなじ宮城県美術館では佐藤忠良の彫刻作品を常設している。「帽子・夏」(1972)は代表作と教わった。



 岩手県立美術館には萬鐵五郎の「赤い目の自画像」(1913頃)もある。これは何度見てもはっと驚く色彩と構図である。あまり知識はないのだが、こういう大胆な作品を描くことに興味をそそられている。いつかは調べてみたい。かなり昔になるが、花巻市に今もある「萬鉄五郎記念美術館」を訪れたことがある。そのときはまだあまり関心がなく、記憶がほとんどない。もったいないことをしたと今では後悔している。洲之内徹は「孤独」という言葉をキーワードにして萬鐵五郎を論じている(絵の中散歩)。もう一度読み返してみよう。

      

 福島県立美術館からは関根正二の「姉弟」(1918)に再会できた。これも洲之内徹が触れている。二十歳で夭折した福島県白河市出身の画家。「神の祈り」と同時に展示されていた、こちらの現物は初めて目にした。
 このような静謐な作品が私の好みである。



 福島県立美術館では斎藤清の作品が多数収蔵されている。今回は「会津の冬」のシリーズの内#1と#26を見ることが出来た。このシリーズを以前に全点だったか、ほとんどだったか記憶が曖昧だが、見たと思う。私はこのように深い雪に埋もれて暮らした体験はない。しかしそれでいて懐かしく暖かみを感じたと思う。雪の柔らかい曲線が魅力である。実際には厳しい冬と雪である。このように昇華してしまうことには私は違和感もないではないが‥。

 先ほど触れた関根正二の「神の祈り」以外で、今回初めて見たと思われる作品で印象に残ったをいくつか。



 まづは澤田哲郎(1919-1986)の「小休止」(1941)。この作品にはとても感銘を受けた。2時間ほどいた会場で3度ほど見に行った。まず目につくのが、白い服と細い裸足の脚と黄色い帽子の縦の線。顔は描かれていないが、かえって表情豊かに見える。リヤカーの車輪と四角い荷が重みを感じさせる。特に特徴的なのは遠近法を無視し湾曲した牽き棒。これによって人間と荷がともに大きくクローズアップされている。夕方と思われる強い西日、一日の労働を終えたか終える寸前の疲労が伝わってくる。もうひとつ不思議なのはリヤカーの影が車輪部と荷の部分が一緒になっていること。左から日が当たるとすると左の車輪部の影は車輪の形になっていないとおかしい。そして何より人間には影がない。しかしこれがかえって人間を浮き上がらせているし、荷の重みも強調している。大胆な省略と歪みが成功していると思った。
 もしも岩手県美術館にまた行く機会があれば、この画家の他の作品も含めて注目してみたいと思った。以前にもひょっとしたら見ていたかもしれないが、見落としていた可能性がある。私にとっては新しい発見があり、嬉しかった。



 個人蔵である橋本八百二(1903-1979)の「津軽石川一月八日の川開」(1943)。人間の引く力の強さと青い鮭の重みと人間の集団作業の熱気に惹かれた。
 解説によると交流のあった藤田嗣治の「アッツ島玉砕」とともに血戦美術展に出品され、青森・岩手を巡回した作品とのことである。この画家にも興味を惹かれた。



 次に印象に残ったのは、松田松雄(1937-2001)の「風景(民-A)」(1977)。人々が押し黙って黒い布を被り、個性を隠すようにして大勢で座り込んでいる。座り込んでいるのは雪の上か砂浜か、背景も大地も詳細が省かれている。黒い塊が人と認識できるのは真ん中の黒い塊が微かに描かれている目のあたりの白い線と丸い背中暗いだろうか。一見海岸のテトラポットにも見える。
 私が仙台を離れた1975年の直後にこのようなに押し黙った民衆像が画家の脳裏に存在したということにまず驚いた。初めは東北の「耐える」民衆像を固定観念として押し付けられたのか、との疑念もあったが、そうだとするには存在感がありすぎる。どこか現実に繋がる回路をもった民衆像に見える。まがい物には見えなかった。

             

 その他、若松光一郎(1914-1995)の「ズリ山雪景」(1956、いわき市立美術館)、佐々木一郎(1914-2001)の「帰り路、松尾銅山(長屋)の夕暮」(1975-82、岩手県立美術館)、蒲田正蔵(1913-1999)の「鳥が落ちる('86.4.26の記録、郡山市立美術館)、狭間二郎(1903-1983)の「東北の野」(1940、宮城県美術館)、橋本章(1919-2003)の「武装する都市」(1979、福島県立美術館)などが印象に残った。




 修復された作品では石巻文化センター所蔵の高橋英吉の作品群。「海の三部作」の「潮音」「黒潮閑日」「漁夫像」はテレビで見ただけだった思うが、あらためて彫刻の人物像というものの存在感に圧倒された。修復され復元されたことを記憶にとどめたい。

 

 また有名な猪熊弦一郎の「猫と頭」(1952、陸前高田市立博物館)も被災し修復を終えた作品として展示されていた。

 

 この壺、私は陶器にはあまり接することはないが、とても美しいと思った。震災で釜が損壊し、後継者が無く、存続が危ぶまれているとのことが記されていた。



「国吉康雄展」(そごう美術館) その4

2016年06月25日 14時13分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
               

 マスクが登場する作品は、「逆さのテーブルとマスク」(1940)、「今日はマスクをつけよう」(1946-47)、「クラウン」(1948)、「舞踏会へ」(1950)、「ミスターエース」(1952)の5点が展示されていた。
 「クラウン」は152×205センチという大きな作品である。保存状態が悪く修復過程がビデオで紹介されていた。
 解説によると、「マスクという題材はそれまで多かった女性像から入れ替わるように、この頃(戦後)から登場する‥。マスクをつけた道化や、サーカスを題材にした作品が、色彩も一見、明るさを増してはいくが、代わりに登場人物たちの表情の持つ意味は、‥以前の女性たちの表情にも増して曖昧になり、見る者の感情や経験によって左右された」と記されている。
 なお「ミスターエース」ということばについて解説では「「ミスターエース」とは、当時上映された映画で、アメリカの理想の男性像を演じるのに疲れた男の話‥。アメリカでエースというとき「切り札」という意味の他に「二面性」や「裏の顔」という意味でも使う」という記述がある。
 マスク=仮面をつけるという行為は、アメリカという「民主主義」を標榜する国の二面性をあらわすのか、それによって蒙る作家の日常生活の二面性をあらわすのか、それは深読みに過ぎないのかはわからない。
 このころアメリカは第二次世界大戦時のナショナリズムによる「白人」優位性に基づく多人種・他国民への排他性が著しい上に、東西冷戦という緊張関係の中でマッカーシズムという反共の砦として「民主主義者」も「共産主義者」も一把ひとからげに排除の対象となっていた。それこそスターリン化のロシアや戦前の日本の言論弾圧と遜色がないといっていい位だったし、スパイという名で冤罪も数多く発生したことは有名である。実際に人の生命も失われている。
 戦後国吉は日系人の強制収容所や原爆被害者支援活動を行う。二番目の「今日はマスクをつけよう」は右手で仮面をつまんでいるように見えるが、そのつまんだ指の部分を除いて実際の顔に厚塗りの化粧をしたようにも見える。複雑なアメリカ国内情勢と厳しい生活環境を仮面のようなものを被らざるを得ないことを読み取るのは単純すぎる類推に過ぎないのだろうか。
 三番目の「クラウン」は大きな作品で、他の作品とは違ってマスクだけが大きくクローズアップされている。床か机の上にどういうわけか立っている。支えているものは描かれていない。その仮面の表情は、表情を隠しているのではなく、愁いに沈んで弱々しげに見える。悲哀に満ちている。だが、じっと見ているとしだいに口元が少し笑いを含んでいるようにも見えてくる。能面にも似て、さまざまな表情を含み、仮面をつけた演者の動きによって表情が変わる面である。私には仮面の上にある黄色の楕円形や、背景の赤色、青色が何をあらわしているのかわからない。
 四番目の「舞踏会へ」。舞踏会が日常生活なのかもしれない。
 最後の「ミスターエース」は仮面を外しているが、その下の顔もまた仮面のような顔である。道化師であることを生涯つづけなければならないか、仮面をつけ続けなければならないという背景すら感じる。

 国吉康雄は「民主主義国家」の内部矛盾や不合理には異議申し立てを精力的に行っているように見える。その活動を作品制作のエネルギーにしているように見える。直接的な表現ではなく、仮面や馬や少女‥という一ひねりした材料を使っているところが、好感が持てるところなのかもしれない。解釈に幅が出来て鑑賞者に投げかけるものに多くの含みがもたらされる。
 日本の軍国主義に対し、ラジオの国際放送で国吉自身の「あなたがた日本の人々は、国際的な品位を汚す者たち、人類を奴隷化する独占者たちと妥協してはなりません。日本の将軍たちがこの戦争を始めました。終わらせるのは私たちなのです」声が流されたのち、国吉自身がアメリカという国で嵐に抗しなくてはならなくなったことは皮肉なのかもしれない。
 同時に自ら発言した「終わらせるのは私たちなのです」をアメリカという国に即して実践したといえるかもしれない。それが今の時点から見て評価できるものかどうかは、意見はいろいろありそうである。

   

 戦争中に国吉が作成した対日戦争のためのポスターの下書きも展示してあった。はっきり言って目を覆いたくなるようなつまらない漫画である。今のコミックの隆盛を築いた方達には申し訳ないが、ここまで漫画を落とし込めてはいけないと思う。対極にある藤田嗣治の後期の戦争画の方が、あり得ない肉弾戦の場面であるが、戦争画としては迫力はあるし、「新しい表現」に対する意欲を感じる。それが正しい画家の在り方かというと私は否定的だが‥。

 藤田嗣治と対極にある画家として国吉康雄は私の記憶に残ると思う。二人の軌跡は対照的なようでいて、同質なところもある。戦争そのものが「悪」であるという視点から、そして「現在」からの視点でねあの戦争をどのように潜り抜けたかという評価抜きにしては、現在の私たちの身の振り方の参考にはならない。いつもこれを問い続けていたい。

      

 ここに画家の写真がある。ちょっと気取って、得意然とした「成功者」のポーズである。同時代の習俗と云ってしまえばそれまでだが、藤田嗣治の写真と私はあまりに似ている表情に驚いた。
 国吉康雄は貧しく育ち、渡米して画家の道を見つけ、アメリカの友人に囲まれ成功している。アメリカという国の日の当たる場所を受け継ぎながら、アメリカの負の部分に捨てられそうになりながらも、戻るところのない日本には戻ってこなかった。
 藤田嗣治が恵まれた環境で育ちつつも決意をして渡欧し、ある意味では自力で成功している。戦争という事態を日本に戻って潜り抜けて、そうして戦後日本に捨てられ、フランスでレオナルド・フジタとして生涯を終えた。
 ともに「成功者」としての絶頂を日本以外の地で獲得している。それは脱亜の象徴でもある。国吉の方が「コスモポリタン」として自己を全うしたのかもしれない。レオナルド・フジタは果たしてどうだったのだろうか。
 対比的に見ながら、これからも注目していきたいと思う。

 他に取り上げたかった作品もあるが、取りあえず終了としたい。