Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

春の嵐を聴く

2010年03月21日 13時59分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜は大風が吹き荒れた。風により被害が出たり、列車の運行などに携わる人など多くの人が振り回されたようだ。
 私は例により、灯りを消した風呂で風のうなる音に浸り、寝室でじっくりと音に聞き入った。
 私にはシンフォニーのようにも聞こえた。ヴィヴァルディーの四季やベートーベンの田園交響曲の嵐の場面が有名だ。どちらも好きな曲ではある。しかし私の場合は音楽家として再構成したり、再現しようとするつもりはないので、あのような旋律や和音への変換とはならない。
 情景描写やそれを匂わす音楽ならば、嵐の雰囲気の音の連なりを旋律や和音に変換し、さらに様々な楽器の特性に変換し、楽譜に書きとめていくのだろう。音楽家でも再現を求めるでもない私は自然の音そのままを音の奔流のように受け止めた。
 通奏低音のように常に下支えする音は、空からゴーッというような音が途切れることなく響く。時折団地のすぐ傍の高層のマンションから吹き降ろすように少し高い音が押し寄せる。丘のいただきのような場所に位置する私の団地は風が周囲より風が強い。隣の高層マンションとの間の広いとおりを舞うように風が吹き抜ける。この音も独特の響きを持つ。
 団地の東西に並ぶ号棟と号棟の間を吹きぬけながら、プラタナスの枝を揺らす音はすぐにわかる。芝の上を吹き払う風に運ばれる落ち葉の音はどんな嵐でも丸みがある。玄関前の舗装道路を風に運ばれる落ち葉やゴミの音は擦るように引きずる音に鋭さがある。階段室に吹き込む風は行き場を失って砂を巻き上げ玄関扉に小さな金属音を含む突進を繰り返す。
 電線・通信線の音も線の太さにより、また季節の温度の変化により引っ張りの強さが微妙に違い、弦楽器のように震える。リートを持つ木管楽器のような音色にも聞こえる。南北のガラス窓やベランダに衝突する風は、ガラスの振動を含んでいる。
 これらの音の奔流をそのまま、球体の中心にいるように聴いていた。
 そのまま寝入ったらしいが、明け方5時半、突然の大きな、極めて近い雷鳴により目を覚ました。そして雨の音がこれまでの突風の音に変わり湿気と丸みを帯びたフィナーレとして聴くことができた。
 もし私が音楽家でこのような情景を写そうとするならば、どうするだろう。むろん嵐に対するイメージは個性がある。さらにその変換作業にするために印象の取捨選択を個性に合わせて行う。テンポと調整を選択肢、旋律と和声を作る。もっとも個性が出てくるであろう。そして楽器の選択をする。楽譜に書き留めるときには持続の時間と展開部の展開を想定する。実に勝手な素人の想像だがこんなプロセスがあるのではないか。
 実に様々な変換過程が存在する。これは言語による作業より複雑に見える。もっとも音楽家にとっては音の定着は言語を操るように行うともいうから、私の想像とは違う過程を経ているのかもしれない。
 また私たちが普段慣れ親しむバロックや古典派やロマン派の音楽と、現代音楽の印象の大きな違いは、この変換作業のあり方に当然原因があるのだろうが、この違いはまったく想像ができない。
 こんなことを考えていたら、6時過ぎには再度寝入ってしまった。朝8時に再度目がさめたときには、風も止み、明るい日差しで静かな朝となっていた。



 さてこの昨日から今朝にかけての嵐、朝方には快晴、無風となったものの昼くらいからはまた曇り空、次第に風も出てきた。
 梅もそろそろおしまいかと思っているうちに風でずいぶんと飛ばされた。こぶしにもつらい風と雨であったようだ。私の好きな雪柳も多くの花弁が散ってしまった。昨日の朝の雨で株本に白い花弁が散っていた。
 雪やなぎ風を溜めつつ風を生む(Fs)
 この句は春の心地よい風を詠んだ句だが、私としては気に入った句だ。