syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

東京大神宮・神田明神

2013-11-21 | syu散歩

「東京大神宮」(JR飯田橋駅に近い)は、明治13年(1880年)、有楽町の大隈重信邸跡に落成した「皇大神宮遙拝殿」が起源。
明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として作られたものであった。
1882年、明治政府の方針転換により神社と宗教活動は分離することとなり、伊勢神宮でも神宮司庁と神宮教院を分離することとなった。
皇大神宮遙拝殿は、神宮教院に属することとなり、神宮教院が神道神宮派に改称する際に、大神宮祠と改称したと云う。
一般には、所在地名から日比谷大神宮と呼ばれていたが、1899年、神道神宮派が解散して新たに神宮奉斎会が作られ、神宮奉斎会本院と改称し、神宮奉斎会の本部機関となる。
三重県宇治山田市(現・伊勢市)には神宮教院大本部が置かれ、1923年、の関東大震災で社殿を焼失し、1928年、現在地に再建・遷座して、以降は、現)飯田橋大神宮と呼ばれるようになった。
大戦後の昭和21年、「宗教法人東京大神宮」として再発足した。

「大隈重信」1838-1922 立憲改新党総裁、早稲田創立者、伊藤博文内閣・黒田清隆内閣の外務大臣、明治新政府代表政治家。
右翼の爆弾で右足を失う。

    

人生、最も重要な儀式である「結婚式」、我が国古来の神前結婚式は、明治33年、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)と九条節子姫(後の貞明皇后)のご成婚に始まります。
宮中の歴史において初めて皇居内の賢所(神前)で行われたご成婚の慶事を記念して、東京大神宮では神前結婚式を創始し、以後その普及に力を注いでいる。
それ以前の挙式は家庭で行うのが通例、神前で厳粛かつ神聖な儀式を行うことは、画期的なできごととして人々の関心を集める。

大正元年に発表された夏目漱石の有名な小説「行人」にも、日比谷大神宮(現在の東京大神宮)における結婚式の様子が克明に描かれている。

手水舎                        拝殿                    門楼
    

若い男女の縁結びで人気がある。
伊勢神宮の御祭神、「天照皇大神」 「豊受大神」「倭比賣命」を奉斎。
天照皇大神は、伊勢神宮の内宮の御祭神、国民全ての祖神・豊受大神は、伊勢神宮の外宮の御祭神で農業、諸産業、衣食住の守護神・
倭比賣命を奉斎。

                    麦茶のサービスを           鎮座する町内の催し
    

「御茶ノ水」と「浅野総一郎(1848-1931)」、
現)富山県氷見市の百姓の長子として生まれ、1871年に上京、
お茶の水で水売りを初め、竹の皮商から薪炭商へ転じ、コークスの売り込みに成功。
渋沢栄一氏の知遇を得、投機商人から産業資本家への道を開き、官営深川セメント製造所を貸与され、84年払い下げを受け、浅野工場(後の浅野セメント)を設立。
同郷の安田善次郎氏の援助で96年東洋汽船を創立、太平洋航路を開き、豪華船を就航させたが、第1次大戦後の不況で衰退し、その経営を日本郵船に譲った。
1913年には安田氏の協力の下、鶴見・川崎海岸の埋め立てに着手し、16年浅野造船所、18年浅野製鉄所(後に両社とも日本鋼管に吸収合併)を設立するなど、多面的な産業王国を築いた財界人。  (平凡社の大百科事典より)。

御茶ノ水聖橋から


「神田明神」
730年に出雲氏族・真神田臣により武蔵国豊島郡柴崎村(現・東京都千代田区大手町、将門塚周辺)に創建されました。社伝より

銅大鳥居                   門楼               拝殿
    

「天慶の乱」(939~940年)に敗れた平将門公の首が葬られ、天変地異の怪異が続き住民が窮したところ、時宗の真教上人がその祟りを鎮め、
1309年には将門公が神田明神の祭神として祀られました。
神田明神は皇居のほとり(現在の大手町、将門首塚)にあり、江戸時代に入ると、幕府を開いた徳川家康は、神社を深く尊崇し神領を寄進。
幕府の発展と城下の大規模な造成により、1616年には、現在の地に移転し、江戸城の丑寅(うしとら)の鬼門にあたる場所で、
江戸総鎮守神田明神にふさわしく、幕命により桃山風の壮麗な社殿が築かれた。

平将門の首が付近に葬 られると天変地異の怪異が続き、それを知った北条時宗の真教上人が将門の祟りを 鎮め、
1309年、平将門命を祭神として合祀した。

狛犬                      小唄塚等の石碑
    

「神田神社・天下祭」は、江戸時代から、華麗な山車が36台も続き、将軍上覧の天下第一の祭礼として全国に知れ渡りました。
現在は祇園祭(京都)、天神祭(大阪)と並び、日本三大祭として江戸っ子が楽しみにしているお祭り。

昔は、東京駅大手町に鎮座                日本橋中心の神社であった
    

神田明神の隣にある区指定有形文化財「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。
神田鎌倉河岸の江戸時代から続く材木商の店舗兼住宅で、 遠藤家は、江戸城築城のために鎌倉材木座から招集された材木商で、神田の鎌倉河岸に店舗を設け、江戸城の立ち入りも許されていた商人。
現在文化財となっている神田の家は1927年に建設され、この地に移築。

日本橋川は、            江戸の商店が並んでいた                  その一つ材木商の遠藤家の旧家
    

次回は、湯島天神、上野、下谷神社方面へ。

靖国神社と戦没者墓苑

2013-11-19 | syu散歩
「九段坂・牛ヶ淵」、宝永年間 1704~1709年に、この急坂に沿って段違いになった九軒の長屋を造り、江戸城の吹上庭園に勤める役人を置いたのが九段坂名の起こりである。
この坂上左の土橋を渡ると北ノ丸田安門である。
麹町台の番町を水源とする局沢川の流れを半蔵門と田安門の高土橋で堰き止めて千鳥ヶ淵を造り、田安門下の牛ヶ淵は、清水門前の土橋で水位を保ち、江戸初期の飲料水の水源地であった。
このように堰き止めてできた自然な大池は、人工の濠割と異なり「淵」と名付けている。

1700年頃の九段坂


「日本橋川」、水道橋駅の西、神田川の小石川橋のたもとから南下し、大手町の北縁から呉服橋北、日本橋を経由し、永代橋付近で隅田川に注ぐ水路である。
この川の西半部は外濠の一部を構成している。
この部分は、「平川」と呼ばれ、小石川沼から江戸湾へと注ぐ主要な川筋だった。
江戸の都市整備で上流を神田川に奪われ、その後は小さな水路に過ぎなかったが、明治になって再度神田川に接続された。
現在は首都高速池袋線に蓋をされた形になっている。
現在の一ツ橋、神田橋、常磐橋のたもとには、それぞれ一ツ橋門、神田橋門、常盤橋門があった。
また雉子橋のやや南には雉子橋門があった。現在、常盤橋門周辺は、「常盤公園」になり、門の遺構を見ることができる。

JR市ヶ谷駅下車し千鳥ヶ淵・靖国神社へ


「千鳥ヶ淵公園・無名戦士戦没者墓苑」
北の丸公園の西側の皇居の堀が千鳥ヶ淵、千鳥のような形をしていてその名があり、両岸に桜並木で桜が咲き乱れて都心でも人気。

米の国務、国防両長官が千鳥ケ淵に献花、私は、桜の時期には欠かさず参拝する


靖国神社から多少は慣れて「無名戦士の墓、戦没者墓苑がある。我が国唯一の国立無名戦士の墓になっている。
満州、中国、南方諸島で収集された第二次世界大戦の身元不明の戦死者8700体の遺骨がつめられている。



若者たちを「花と散れ」と命じ、果ては「草むすかばね……かえり見はせず」と何百万の兵が南や北に放置された。
「千鳥ヶ渕墓苑」は、重い腰を押されて政府が建てた「草むす屍」の納骨所だ。
皇居の北側、靖国神社脇の田安門から内堀にそって南に歩く、堀は広く深い緑の静閑な地が千鳥ヶ淵。小さな六角堂が建っている。
戦友や遺族の努力でやっと収集受領の約三十五万体が納まると云う。



桜並木が見事な所


地図の中央部と敷地は広い


靖国神社へ


「靖国神社」
東京招魂社という名称であったが、後に現社名「靖國神社」に改称された。
創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した。(陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記する)。

蔵前通りから神社に
    

                        拝殿


幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年現在で計246万6532柱にも及ぶ。
当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになる。

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、1959年に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。
従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座であると云う。

神社境内
    

戦後、日本を占領したGHQは、1945年、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。
そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル神父とメリノール宣教会のパトリック・バーン 神父に意見を求めることになる。
ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。

                   九段坂から大鳥居を潜ると楼門


靖国神社の組織は、神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。
神社本庁に属さない神社であるため、宮司以下の神職は神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はないとされている。
例えば第6代宮司の松平永芳はもともと神職ではない。この場合、祭式などの研修をまず受ける事になると云う。

                   境内で青空骨董市が


                   九段坂を登り切ると「常燈、品川沖灯台と大鳥居」


「東京女子医大発祥地」
1900年ー 東京至誠医院の一室に東京女医学校創立。 1903年、 東京女医学校は麹町区飯田町の東京至誠医院内から牛込区市ヶ谷河田町の陸軍獣医学校跡地に移転。 1908年、河田町に東京女医学校附属病院を設置。 1910年、 同窓会として「校友会」を設立。後の至誠会の前身となった。 1912年、 東京女子医学専門学校に昇格(通称「東京女子医専」)、、、、、。

縄文時代の頃、このあたりは入江。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となる。 徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷に、九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として賑わい、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、さびれた地に、学校など、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に、日本大学開校の地、東京府立第四中学校発祥の地
國學院大学開校の地、甲武鉄道 飯田町駅、台所町跡、東京農業大学開校の地、日本赤十字社跡、新微組屯所跡、徽章業発祥の地。

「北辰社牧場跡」
幕府が破れ明治の時代になると、荒廃が進み廃墟と化している、そこで、その地を農業の場として利用し、職を失った武士たちの失業対策として活用されるようになる。
北辰社牧場もその一つで、最盛期にはこの飯田橋に乳牛が50頭ほどいて、当時は新しい飲み物であった牛乳を提供していたと言われている。
北辰社牧場、実は戊辰戦争で有名な榎本武揚が設立者。
幕臣であった榎本がその才能を買われ、新政府で通信大臣、文部大臣、外務大臣を歴任したという活躍は広く知られている、
農商務大臣は3年務め、(歴代農相で最長と云う)榎本が農業に目を向けるようになったのは、明治新政府によって北海道開拓使として派遣されていた際に、「日本の力を高めるためには、国内農業の発展が不可欠」であることを強く認識したからだと言われている。
榎本は、1862年、幕府にオランダ留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、科学技術等広く習得し、牧場開設という発想は、野菜や乳製品で有名なオランダに影響されていると云う。

    

次回は、飯田橋から神田明神方面へ。

明治神宮・能楽堂

2013-11-17 | syu散歩
都内の神社をめぐりました。7回ほどの掲載になります、

「明治神宮」表参道、大鳥居を潜り、石橋左に一本の「樅の大木」が、ここは代々「樅の木」が生えている。平安時代か、鎌倉時代からか
誰も知らないが、旅人は、その巨木を目印にしていたようである。
この辺を、自然に「代々木」と呼ばれている。
江戸時代に入り、この地は、「加藤清正」の下屋敷で庭園内であった。内苑に「清正の井」がある。
後に、井伊掃部頭の下屋敷、樅の木中心に一里余りの大邸宅であったと云う。現在でも樅の木は残って居る。

若者の人気の「竹下通り」は、この原宿駅を下車


JR「原宿」は、明治39年で、恵比寿駅と同時、最初の頃は、代々木駅寄りで、大正に入り、9年神宮が出来、表参道の駅としてイギリス
田舎駅を模して出来、神宮駅としてマッチした駅となっている。
当初乗降は少なく、代々木連兵場の軍人が主であったと云う。

ショッピング通りと朝の明治通り
    

練兵場は、青山練兵場が博物館建設でここに移動してきている。明治時代は、茶畑・桑畑で、人家は20軒の寒村で寂しい所であったと云う。
代々木森林公園南門に「日本航空発始の記念碑」が建てられている。森林公園は、日比谷公園の3.5倍ある。

表参道大鳥居二の鳥居は、高さ12m、柱直径1.2m、木造日本一。
    

神宮は、南参道「原宿」・北参道「代々木」。内苑面積72万3千ha(21万坪)、明治天皇崩御後、全国民の協力で造営された。
外苑には、献納樹木が、また台湾・樺太・朝鮮などで12万本以上、樹木の種類365種。
全国青年団が勤労奉仕で、現在の様に立派な森林になっている。

神宮橋を渡ると神社第一大鳥居、参道途中に楼門が、正面拝殿



戦災に遭っている。昭和33年に再建、野鳥の楽園にもなっている。武蔵野雑木林の中に、桜、山つつじ、山吹、藤、花菖蒲、睡蓮、花菖蒲は有名、150種。
宝物殿には、明治天皇遺品など(有料)。


献上酒はウイスキーの樽が
    


「世阿弥」1363-1443 能役者・能作家、能を舞台芸術に高めた「能」の大成者。
父の「観阿弥」と共に今熊野で演じた「猿楽」を足利義満に認められて京都へ進出し、名声を高めた。
地方的芸能とさげすまれてきた猿楽を洗練して、新しい芸風を作り出し、それを理論的に裏付けて、「風姿花伝」の伝書群に書き留めて伝えた。足利義満の生存中、世阿弥は、目覚ましい活動をしたが、足利義持は、田楽の増阿弥を愛好したので活動は衰えていく、次の足利義教
になると、甥の音阿弥をひいきし、世阿弥は、仙洞御所への出入り差止めなどの圧迫を受けたあげく、ついに永享6年には、佐渡島へ流された。「風姿花伝」は、明治12年になって刊行されている。




能は日本の伝統芸能の一つで、狂言とともに南北朝時代から現代に演じ継がれ、世界でもっとも長い演劇生命と伝統をもっている。
独自の様式をもつ能舞台に、能面を用い、世阿弥が「舞歌二道」と指示したように、舞に高められ抽象化された演技と、謡と囃子による音楽要素の融合された演劇である。
明治以降は「能楽」という呼び方が一般化したが、「猿楽」または「猿楽の能」とよばれ、世阿弥は申楽の字をあてている。
「能」とは歌舞を伴い、劇的展開をもつ芸能の意味であり、田楽の能、延年の能も行われていたが、猿楽の能のような発達を遂げなかった。「謡曲」は能の声楽部分をさし、またその脚本をいう。
世阿弥は能の脚本を「能本」とよんでいる。

能楽堂正面玄関


国立能楽堂は、独立行政法人日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場で、1983年8月竣工。設計は大江宏氏。

所在地、渋谷区千駄ヶ谷。

第15代名人大山康晴書の碑がJR千駄ヶ谷駅ホームにある




原宿~千駄ヶ谷と歩く



次回は、靖国神社方面へ。

富士吉田~大月岩殿山 猿橋

2013-11-16 | 富士山麓日記
道の駅富士吉田に 隣接する「富士山レーダードーム館」がある。
かつて 富士山測候所で使用されていた気象レーダードームが移設・展示。ここから観た富士山。

 

レーダードーム館は有料
 

「岩殿山・城」標高 634m

大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。
小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、1509年武田氏の傘下に入った。
その後は軍事的に武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏、武蔵の上杉氏らと争った際の衝突地点となり、国境警備の役割を果たしたようだ。

東西に長い大きな岩山をそのまま城にしており全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。
東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。
周囲には集落や武家館が点在していたとも考えられている。

山頂から富士山が望め山梨百名山・秀麗富嶽12景に選定
 

武田家の敗色が濃くなり「小山田信茂」は、
武田家を見限り、織田方へ寝返るため、新府城を失った信玄の跡を継いだ勝頼を岩殿山城へ呼び寄せます。

信茂は、笹子峠で勝頼を攻撃し、敗北を悟った勝頼は田野(天目山)で自刃します。そのとき流れた家臣たちの血は川を三日三晩赤く染め、
三日血川と呼ばれ現在の日川の由来となっている。
裏切りが成功したかに見えた信茂ですが、織田信長に攻められ死、信長は過去に何人もの家臣に裏切られているので、忠義に反する
信茂のやり方が我慢できなかったとも云う。
その信長も、わずか3ヵ月後の天正10年「本能寺の変」で命を落としている。

中央自動車道からも望める
   

「甲州・猿橋」
日本三奇橋のひとつに数えられる猿橋がある。断崖せまる渓谷美の 桂川 にかけられており、古くから名勝・奇勝の地として知られ、往来の旅人はもとより数々の文人・墨客・才人達がこの橋を訪れて、さまざまな足跡と作品等に残している。

猿橋の歴史は古く、江戸期の甲州街道時代をはるかにさかのぼり、初めて架けられたのは、七世紀(推古天皇の時代)頃ではないかといわれ、渡来した百済の工人が、川岸の梢から猿たちが群れをなして川を渡る姿をヒントに、橋脚を用いず棟木と横桁を何段も重ねて中央で結合するという独自の構造を考案し、この橋を架けたという伝承が語り継がれている。

猿橋の全長は31m。桂川の川面までは30mあり、現在の猿橋は、昭和59年に架け替えられたもので、国の名勝文化財指定に。

 

野口雨情は、やさしい眼差しでこの猿橋を眺め、安藤広重は、猿橋の景勝を「甲陽猿橋之図」に残した。

 

「松尾芭蕉と猿橋」芭蕉は、 
               猿橋や蠅も居直る笠の上。ー芭蕉の甲州への道中吟)
昔から、猿橋の地点は橋づくし、渓谷が深い割りには川幅が狭いので架橋には都合が良かったようだ。
道中の重要な拠点であったのは間違いない、歴史遺産の「猿橋」・旧道の「猿橋」、更に水路の「猿橋」と景観である。

   

最後の山発ちをした「国定忠治」は、 中山道から甲州街道へ追手に逃れ、そして、 ここ猿橋、当時の旅館だった大黒屋にしばらく逗留したという。お店に「忠次そば」がある。

 

今回で富士山一周を終了します。

富士山絶景 新倉山 下吉田

2013-11-15 | 富士山麓日記

「富士吉田」は、国中の甲斐守護家武田氏や郡内領主の小山田氏が支配を及ぼし、甲駿の国境であるため係争地にもなる。
集落は上吉田と下吉田に分離し、東西を川に画され掘などの防御施設を持つ自治的集落で、吉田山城が築かれた。
上吉田には富士参詣の門前集落として御師が集住し、参道の両側には計画的な短冊方地割の御師町が形成された町。

「福源寺」は、真言宗伝燈の道場・聖徳寺だったが、1447年に本願寺中興の祖第八代蓮如上人が同地を巡錫した折りに浄土真宗に改宗、
開基は浄光(俗姓は渡邊伊賀守)。

江戸期には春正寺、勝曼寺、浄願寺の坊舎三宇を持ち、関東における真宗伝道に重要な役割を果たしたと云う。
現在の境内には、鐘楼と並んで典雅な六角太子堂があり、市の重要文化財に指定されている。

    

明治期に、門主の明如上人が、寺を「山梨教校」に指定、関東地方の教学研鋤の拠点としての重責を担い、明如上人から賜った「山梨教校」の真筆の扁額は寺宝。
また、寺宝の室町初期の作とされる名号本尊は、「盡十方無碍光如来」の八字名号の下に勢至・龍樹・世親の三菩薩の影像が描かれた珍しい様式で、「真宗重宝聚英」にも掲載されていると云う。

                           本堂


新倉山浅間公園からの雪なし富士山


新倉山の浅間公園といえば、絶景の富士山。富士山と秋の紅葉の景色は、見応えがあり、「新倉浅間神社」の鳥居を囲む紅葉。
忠霊塔まで続く道と階段に、映える色とりどりの木々たち。


「新倉山浅間公園」
新倉山の中腹にある、この公園は富士山を正面に構え、市内を一望できる眺望豊かな公園。昭和34年開園・広さ42,924km2ある。



「新倉山・浅間神社」 祭神 木花咲耶姫命・大山祇命 参拝する。
ここも、705年、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祀られ、807年の富士山の大噴火があり、朝廷からの勅使が参向せられ、国土安泰富士山鎮火祭を執行しされた。
その時、平城天皇より三国第一山の称号並に天皇の御親筆であり、現在大鳥居にある勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)を奉納。
境内は富士山眺望の当地随一の地で「ここから眺める富士山こそが地元の誇り」と、山梨日日新聞の21世紀に残したい山梨百選に選ばれ
ドイツの航空会社機内誌に表紙として載っていると云う。
忠霊塔までの石段は、人々の格好の鍛錬場所になって賑わいを見せ、夜は富士吉田市の夜景を見る事が出来る。

    

                          拝殿


397段あるこの階段              石段途中から見た富士山              石段を登り切ると忠霊塔が
    

富士吉田市のシンボル忠霊塔・富士山


富士吉田市を一望できる。


新倉山御殿頂上まで1184mある。




次回は、大月方面。