syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

八丁堀・新川 shu散歩

2017-04-19 | syu散歩

「町奉行」
江戸時代に幕府や藩で用いられた役職。
町奉行所は一般に現代でいう警察と裁判所の役割を持った公的機関と知られているが、実際にはもっと広い範囲の行政も担当。
町方(町人)の調査(人別改)も町奉行所の仕事であり、他にも防災など現代でいう役所全般の職務も含まれていたと云う。
町奉行は、幕府や藩が「町方」として指定した地域を管轄する役職であり、通常は町方の多くは藩庁のある城下町(陣屋町)に限定されたため、町奉行という役職もそこに限定された(ただし、広島藩における尾道のように、藩庁以外に町方を指定したケースもある)。
町方は通常は武家町・寺社町・町地を含むものであり、町奉行所の管轄は一般にこの中の町地に限定された(諸藩においては、町奉行が寺社奉行職務を兼任することも多かった)。
一方で、重要な交通路にあった宿場町など規模の大きい町であっても、町方に指定されていない地域は、通常は郡奉行(郡代)が担当。

与力・同心・岡っ引・お白洲・火付盗賊改方・先手組・自身番・評定所・東京駅(北町奉行所跡地)・有楽町駅(南町奉行所跡地は、駅と有楽町)。

          茅場町1~2丁目と八丁堀1~3丁目に、「与力、同心組屋敷」跡


「遠山景元ー別名金四郎」 1793-1855 北町奉行ー大目付ー南奉行
北町奉行時代
天保12年景元は、水野に伺書を提出しているが、その内容は町人への奢侈を禁止していながら武士には適用していないことを挙げ、町人に対しても細かな禁止ではなく分相応の振る舞いをしていればそれでよいとする禁止令の緩和を求めた。
水野は、この伺書を12代将軍になった家慶に提出したが、景元の意見は採用せず贅沢取締りの法令を景元に町中に出させた。
同年に鳥居による策謀で矢部は過去の事件を蒸し返され、翌天保13年(1842年)に罷免・改易となり伊勢桑名藩で死亡、鳥居が後任の南町奉行になり、景元は1人で水野・鳥居と対立することになったと云う。

「大岡忠相」 1677-1751 大岡政談ー名奉行
大岡忠真の養子・24歳で家督を相続・41歳で江戸奉行に任じられ、8代将軍「吉宗」の信任を受ける。-享保の改革ー
長年の功績で、三河国内に1万石の所領を与えられ大名に列している。

               JR京葉線・地下鉄日比谷線 八丁堀駅出口


「堀部安兵衛」 1670-1703 2度の仇討ち
赤穂浪士堀部弥兵衛の養子・越後新発田。
「喧嘩安・のんべい安」、講談では、3度の仇討ち。

堀部安兵衛武庸之碑
亀島川に架かる亀島橋西詰に。本所吉良邸に討ち入りし上野介の首級をあげた赤穂浪士四 十七士の一人。(京橋水谷街の儒学者細井次郎大夫家に一時期居住していた)


「決闘高田馬場」
高田馬場の決闘(1694年・元禄7年2月11日)
元禄7年2月7日、伊予西条藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していて口論に。
他の藩士が仲裁し、一旦は和解しますが、その後ふたたび口論になり、ついに決闘で決着をー場所は、高田馬場。
菅野は、自家の若党と草履取りの2人しか助っ人がいません。しかし、村上家は三兄弟と家来ら6~7人に。
菅野は、悩んだ挙句、直心影流堀内正春の堀内道場の門弟で義理の叔父・甥の関係を結んでいた剣客「中山安兵衛」(のちの堀部武庸)に事情を説明し、自分が討たれた後の妻子の身柄引受と敵討ちを・・・。
話を聞いて、敵討ちは受けられないが、今なら助っ人に・・・。(菅野もそれを期待)
安兵衛を連れて、菅野は4人で高田馬場へ。
行ってみると村上一人がいますが、さりげなく弟ら助っ人が木陰などに隠れている事に気づき、挟み撃ちを仕掛けてきた相手に応戦し次々と3人を倒し
菅野も、必死に村上と闘い、手傷を追わせた所で、安兵衛が助っ人に入り村上を斬り伏せた。
この、決闘事件は、江戸市民の大評判となり、安兵衛は18人斬りなどと大げさに盛り上げられ、
話を聞きつけた赤穂藩士の「堀部金丸」が、安兵衛に中山姓のままでも良いからと頼み込んで娘婿に。
安兵衛は、のちに赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件に参加・
安兵衛は、偶然とは言え、江戸庶民の大きな関心を呼んだ2つの事件にそれぞれ関わって話題に。



「亀島川」は、中央区を流れる荒川水系の一級河川。
区にある霊岸橋付近で日本橋川から分流し南へ流れ、亀島橋を過ぎたあたりで南東に折れ、中央区の中央大橋下流で隅田川に合流。
約1kmの短い流路延長に5つの橋が架かる。霊岸橋・新亀島橋・亀島橋・高橋など。
江戸期には、川沿いに向井将監(忠勝ほか)の御船手奉行所があって、江戸に入る船舶はここであらためを受けたため、「将監河岸」とも呼ばれた。
江戸時代は越前堀とも言われ、明治時代には越前堀一丁目など、地名にもなっている。
上流の日本橋川との分岐点である日本橋水門と、河口の亀島川水門の2つの防潮水門で完全に閉め切ることができる。
隅田川との合流点は海に近いため、高潮の発生時に川が逆流して洪水を引き起こす可能性があるからと云う。

                         亀島橋


       橋工事を元禄12年・1923年の大正12年(関東大震災)・昭和5年(現在の橋に)


     新川には、御船将監(手組)の御用船・河岸幕府水軍が、勝手に入船できなかった。




「東洲斎 写楽」 生没年不詳 浮世絵師
寛政6年~翌年・約140の浮世絵を発表し、作品は役者絵が大半・発表当時評価な芳しきなかったと云う。大正期以降再評価。
写楽の生涯は謎が多いと云う。消息も不明。現在は、写楽別人説が、



写楽は、それまでの常識を覆す雲母(きら)摺りの豪華な背景と、リアルな表情と姿態を描き、日本を代表する浮世絵師の一人として世界に.
1997年,埼玉県越谷市の法光寺に残る過去帳に「江戸八丁堀地蔵橋に住み、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛が文政3年の1820年に58歳で死亡した」との記述が発見され、「写楽と斎藤十郎兵衛が同一人物」で、ここ八丁堀に居住していたとの説が最近注目されるようになってきたと云う。



夏目漱石、永井荷風、徳富蘇峰、宮沢賢治など、文豪がここから千葉の館山や、大島への船旅に。
漱石と荷風にいたってはその作品、「こころ・町中の月」にこの霊岸島の発着所が登場。
当時は、亀島川の流れる霊岸島は、旅の出発点として知られるようになっていきました。

                       霊岸島から


「伊能忠敬」 1745-1818 日本地図をつっくた商家の隠居、測量家、千葉県佐原。
18歳で伊能家の婿養子、酒造業・米穀の伊能家を建てなしている。天文学の高橋至時の門下へ、17年間全国の測量を行い「大日本沿岸輿地全図」編纂。

      忠敬終焉の地は、八丁堀。八丁堀の亀島橋のたもとに、碑が。(深川の隠宅から亀島町に居を移した)


老舗の佃煮屋「日本橋 鮒佐」の店先に松尾芭蕉の句碑が建てられている。
江戸時代小田原町と呼ばれていて、1672年の寛文12年・29歳の松尾芭蕉が、故郷である伊賀上野から江戸へとやってきて8年間住んだ場所。
松尾芭蕉は、当時「桃青」と称していて、日本橋魚市場に近い繁華街小田原町に住み俳壇での地位を固め、1678年、に俳諧宗匠として独立した。
芭蕉の江戸での住まいは、その後、深川に移り、1689年、「奥の細道」の旅に備えて千住へと転居し、この年46才の松尾芭蕉は「奥の細道」の旅に。
実際に「奥の細道」が完成したのは1694年の元禄七年。
その年の10月、病に臥せっていた芭蕉は帰らぬ人に、享年51才。

               この句碑は、小田原町に住んでいたときであろう。


「中央区新川」
新川は、新川1丁目3番から4番の間で「亀島川」から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。
規模は延長約590m、川幅は約11mから約16mと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていた。
新川は、豪商「河村瑞賢」が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年の1660年、開さくしたといわれ、
一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられている。
当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれた。



江戸で年間約100万樽を消化し、江戸周辺で約10万樽他の90樽は、伊丹・伏見・灘五郷(26の酒蔵が)等で、そのために沿岸部に多い。
「灘五郷」とは全国に名の知れた酒造りのまちで、神戸市灘区から西宮市の海沿いにある五つのエリアの総称で、酒造りに適した気候と西宮の宮水、酒造りの職人丹波杜氏の腕という好条件が揃ってできた酒は、近くの港から江戸に向けて大量に出荷することが。
灘をはじめとして伊丹や伏見など、上方の酒を江戸に船で運ぶ際に問題になるのが、
「酒樽」の破損、それを防ぐ目的で、ワラで編んだむしろのようなもの=菰(こも)でくるんで運んだのが
「菰樽」の始まり。
菰には、酒の銘柄を区別するために名前や絵があしらわれ、現在は店頭装飾にも利用されるデザイン性の高いパッケージへと進化を遂げていきた。
「樽廻船」は、ここ現在の新川で降ろされた。1716年~。


茅場町から八丁堀 syu散歩

2017-04-16 | syu散歩
「茅場町」
江戸城が築城された当時は茅が生い茂る草原で、屋根葺の材料となるカヤで商いをする商人が住んでいた場所と伝えられている。
明治20年の1887年ー東京電燈会社が、初の発電所を建設し、日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などの電燈の供給を開始。
わが国の配電線による最初の電燈供給である。
発電設備は直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据付け、25kwエジソン式直流発電機1台を運転、配電方式は電圧210v直流三線式。



「日本橋川」は、都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流し南東へ流れ、中央区の永代橋付近で隅田川に合流する。
全流路に渡って首都高速道路の高架下を流れている。(日本橋も残念ながら高速道の高架下)
JR水道橋駅西口近くで神田川から真南に分岐し、直後に首都高速5号池袋線の高架下に入り、靖国通りと交差後、南東方向に流れを変える。
雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に30 mまで接近する。直後に首都高速都心環状線の高架下となる。川面が開けるのは、日本橋を通過後、亀島川が分岐してから河口に至る僅か500 m弱でしかないと云う。
関東移封後、徳川家康は、江戸城普請の一環として日比谷入江に直接流れ込んでいた平川を道三堀・外濠に繋ぎ替え、この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通り)が埋め立てられた結果、残った流路が現在の日本橋川。
江戸幕府開幕に伴う天下普請による神田川開削で日本橋川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ外堀から切り離されていた時期もあるが、
1903年の明治36年、に再びこの区間が開削され現在に至っている。
日本橋川流域は水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄え役割は大。
周辺には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わった。
現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っている

                    高速1・6・9号線など兜町に集中


「大番」
1956年から1958年まで、週刊朝日に連載された作家獅子文六の大衆小説。人気作となり、のちに加東大介主演で映画化される。
地方出の平凡な男が、地場証券の社長になり、相場で大儲け、事業を起こしたりの山あり谷ありのストーリー。
加東大介の熱演を思い出した。
                    15~17世紀にかけて水利工事が。


中央区の中央が「日本橋茅場町」、隣が日本橋兜町で「東京証券取引所」は近距離、そのため証券会社、銀行が集中している。
「兜町」は、平将門の兜を埋めて塚にした所を兜山と云ったところから由来しているという。
その地に祀られたのが兜神社、兜神社の縁起は平將門の兜が一番古い(伝承の中での起源)縁起であるが、他に兜神社の由来は源義家が奥州往きの途中に暴風に出会い鎧を沈めて竜神に祈って無事を祈った場所に、都への帰途兜を埋めて塚を築き埋めて神を祭ったという故事を縁起とするものもある。
かつては沼地だった兜町付近だが、江戸時代に入ると江戸城築城のために埋め立てが行われ、周辺は大名屋敷が立ち並んだ。
兜橋、兜の渡しなどの地名ができた。
明治に入ると、明治維新の恩賞として、兜町周辺の土地を三井家等が受け取り、「兜町」と名づけられた。
渋沢栄一を中心に、1871年に第一国立銀行本店が、1878年には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が設立され、商業(金融)の街へと急速に発展し、1923年の関東大震災により、辺りは焼け野原となるが、震災後は近代的な街並みに一変する。



                茅場町駅は地下鉄日比谷線・東西線が。


「八丁堀の与力・同心組」
中央区八丁堀1~2丁目・日本橋茅場町1~3丁目。
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町、寛永12年の1635年、江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立。(範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中)
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。
与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。
着流に羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていたという。
初期には、江戸町奉行板倉勝重の配下として
与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務。
与力は、知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地。
与力・同心たちが江戸の治安に活躍しもしたが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られている。(中央区教育委員会より)



            「八丁堀駅」  地下鉄日比谷線とJR京葉線が


  「新大橋通り」港区から中央区新富町・八丁堀・茅場町・小網町・蛎殻町から隅田川・新大橋へ


「自身番と木戸番」
自身番(町の費用で運用)は、家主が交代で努め・木戸番は役人が。夜の4つに閉め、明け6つに開ける。その間原則として通り抜け禁止。



「日本橋」は、日本橋川に慶長8年に架けられ、五街道の基点・1618年再建し37間4尺の橋が(江戸城と富士山が見えたと云う)、
明治44年完成した石造二連アーチが現在の橋。

人形町・水天宮 syu散歩

2017-04-14 | syu散歩

「人形町」は、水天宮の門前町として栄えた町、江戸時代人形師や人形商が集まっていたためその名に。
かつら屋・花輪・三味線やバチ・三弦などの店も、それは、料亭街をひかえ、戦災に免れているため、いまだに江戸情緒が残っている。
8月のセトモノ市が知られている。
人形町は、区の北東に位置、日本橋人形町と云えば、江戸時代初期から芝居小屋が立地し、その一つに人形芝居とその関係の家が多かった。
現在「明治座」が、日本橋浜町に、人形町末広亭(玄冶店跡隣)寄席があったが昭和45年閉鎖された。昔は、映画館が7軒あり(2~3本立て映画館が)
子供の頃、入谷から都電に乗り見に行った記憶がある。

お富さんの玄冶店、歌舞伎「与話情浮名横節」は、人形町の交差点陶器店の角に碑が建っている。「岡本玄冶と云う医者の屋敷があったので・玄冶店に」
浜町公園は、隅田川岸で料亭街、大川端で栄えた。今は、細い柳の木が、
また浜町と云えば、川口松太郎「明治一代女」大川端を背景に舞台(新派の当たり狂言)・映画・歌などで上演されている。

      日本橋小伝馬町・大伝馬町・堀留町・人形町・蛎殻町と地下鉄日比谷線が


日本橋浜町に「栗田美術館」がある。
実業家の栗田英雄氏の収集された伊万里・鍋島などの陶磁器を展示されている。
本館は、栃木足利に、

       人形町通りー玄冶店・元吉原・中村座(中村歌右衛門)・市村座・日本橋堀留町へ


「元吉原」
鎌倉以来の関東の武士の都となった江戸。
家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。
そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。
そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。
江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。
そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。
そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めたが、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、
慶長17年の1612年、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として陳情、
幕府は、甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220メートル)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。
1640年、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止し、このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだったと云う。

     明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。


                  地下鉄半蔵門線「水天宮前駅」


水天宮は、安産・水難・水商売の神様として庶民の信仰を集めている。
1872年の明治5年、港区の芝から、ここ蛎殻町に移っている。

                長く工事中であったが、完成した。 水天宮


                  縁日は毎月5日 水天宮大祭は5月5日


                         狛犬


                         拝殿


日本橋蛎殻町は、武家屋敷の多かった地域、1876年の明治9年頃は、米穀取式所が出来穀物商が増え、蛎殻町を米屋町とも呼んでいた。

                 ビルの間に、「銀杏稲荷神社」 蛎殻町


                         拝殿

日本橋 小伝馬町 syu散歩

2017-04-11 | syu散歩
中央区は、都の東部、隅田川河口部の沖積地・昭和22年京橋・日本橋を合併し、都の中央になり「中央区」の地名、銀座5丁目が区の最高地点で
高さ5.9mで他は、低地、埋め立てで発展し、現在は我が国の経済中心地。
1457年、太田道灌江戸城築城時は、日本橋浜町・江戸橋・京橋を結んで海岸線、それ以外の地は海面下にあったと考えられ、徳川家康の1590年以降
城下町の建設が行われ埋め立てが始まり、架橋工事なよって区画され町屋が形成していった。
その後、霊岸島・築地・明治に入って、月島・晴海・豊海と埋め立てられた。その間に運河の開削で水運の便が整えられ、東京湾一部築造された。
JR神田駅は、千代田区で、地名は、伊勢神宮の神田があったところからつけれ、山手台地末端の神田山、現在の駿河台中心に東神田・西神田・神田川完成後川の南を内神田・北側を外神田で内神田に大名屋敷が集中されていた。

                  JR神田駅を中央区の小伝馬町方面へ


「国道6号線・ 江戸通り」 浅草橋駅前~言問橋 ...。
地名のとおり江戸期は米蔵が立ち並んでいた地域で、米を媒介にした商いで巨万の富を得た豪商が数多くいたという。


中央区日本橋小伝馬町は、区の北、地名は、名主が伝馬役を命じらた。江戸期には、伝馬町牢屋敷と刑場が置かれた。
小伝馬町に隣接する日本橋馬喰町・横山町など繊維・紙・小間物の問屋が多い。

                 牢屋敷は、十恩公園付近と云う


                       説明板が


                    小伝馬町交差点角に碑


「宝田恵比寿神社」
商売繁盛・家内安全・火防の神として知られ、毎年10月19・20日に行われる「恵比寿神社祭・夷講べったら市」が盛大に行われる。
「べったら市」の起こりは、夷講に必要な道具を売るための市であったが、よく売れたのが大根・べったら漬け。
日本橋界隈では、大事な年中行事となっている。
徳川慶喜は、べったらが大好物であったという。



べったら漬けは、べとべとしていることからつけられたと云う。
べったら市は、江戸時代から続いて、甘い物に飢えていた子供の時よく食べ、ポリポリした歯ごたえが今でも好きである。
つくり方も簡単で、大根の薄皮に剥ぎ塩漬けし、砂糖・米・米麹で本漬け 10~15日で食べられる。ビタミンC・炭水化物など豊富

           朝付けを 素直に切って 叱られるー東京特産ー


                    宝田恵比寿神社  本殿


               社の前が「えびす通り」 市は、この通り。


十思小学校は、明治11年開校の伝統ある小学校。
現在の建物は、関東大震災後の 復興小学校として、昭和3年に建てられ、惜しまれながら 閉校したのは平成3年。
現在、地域の方々の建物を遺し活用しようという熱意によって、福祉施設、地域医療に。

                      十思小学校跡


                     十思公園入口


大老「井伊直弼 安政の大獄」刑死

「吉田松陰」 1830-59 長州藩士 思想家・教育者 生きて大業をなす見込みあらばいつまでも生きよ、、、。

「橋本左内」 1834-59 福井藩主 秀才 一橋慶喜の擁立に尽力する。 26歳、 三ノ輪の小塚原回向院に埋葬された。

                   吉田松陰先生終焉の地碑


                   杵屋藤三郎歴代記念碑




              石町 銅時の鐘 処刑時もこの鐘を合図に執行された。


                    鐘は、都有形文化財


                  十思公園前に 身延別院


                  日蓮宗 日蓮菩薩ご尊像

新座市 平林寺 syu散歩

2017-04-08 | syu散歩
「新座市」は、埼玉県最南端で、東京都に接し、清瀬・東村山・東久留米・西東京市、朝霞・所沢にも近い。
武蔵野台地の水に乏しいが、開発は、川越藩主「松平信綱」にとって「野火止用水の開削(1655年)」新田開発で、米・麦・野菜・果物(ブドウ園)
野火止跡地・平林寺・観光農園などが。
現在は、JR武蔵野線・東武東上線・関越自動車道・国道254・463

「平林寺」は、新座市のほぼ中央の野火止(塚と碑がある)にある。
寺は、臨済宗・山号「金鳳山」・本尊 釈迦牟尼仏・平林寺のもとは「岩槻市平林寺村」にあり「太田道真」の開基と伝わる。
「松平信網」が野火止の開拓に際して、現在地に菩提寺に。

その子「甲斐守輝綱」が1663年に移築している。
天然記念物 平林寺境内林の一角に、  松平(大河内)氏の菩提寺ー信綱夫妻の墓をはじめに一族の墓がある。

       総門ー茅葺  建物配置は「禅宗伽藍の代表ー総門・山門・仏殿・中門・・・」


「臨済宗」中国南宗禅(菩提達磨初祖・北宗禅・南宗禅・5家7宗でもっと栄えたのが臨済宗)
日本初臨済宗印可を得たのが「栄西上人」(中国から茶の種を持ち帰っている 日本の茶祖)岡山備中生まれ1168年入宋・鎌倉の地で「寿福寺」
開創、、、1202年京都「建仁寺」開山・・・臨済宗中興の祖「白隠慧鶴」と云われている。

                南北朝の創建・かんとうの名刹    本山京都正法山妙心寺


                 平林寺は、関東を代表する修行道場


                   総門扁額「金鳳山」


 山門ー350年の風雪に耐えている。 金剛力士像は電力事業の松永氏(電力事業の基礎)寄進










                        中門


                        本堂


                        境内


                        鐘楼


             扁額 「平林禅寺」 丈山作漢詩・隷書・茶道・作庭など精通






                     放水池を背に 感応殿


                    大河内松平家廟所他














太田道真・道灌父子
康正2年の1456年、父・道真(法名)から家督を譲られた道灌。
以後、道灌は上杉政真(顕房の子)・定正(顕房の弟)の扇谷家2代にわたって補佐して、結果的に28年にも及ぶ享徳の乱を戦う事に。
古河公方側と戦うために早急に防御拠点を築かねばならず、顕房死後に扇谷家当主に復帰した持朝の命で、1456年、から1457年、にかけて
太田道真・道灌父子は武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、埼玉郡に岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いた。
「岩槻城は太田道灌によって築城されたとされていたが、近年に道灌と対立した古河公方成氏方の忍城主・成田正等によって築城されたとする資料が見つかるに及んで、現在は後者の学説の方が有力となっている。」