日々史跡めぐり

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掛川の平将門十九首塚(2)十九首塚

2013-10-18 | 平将門
東光寺の本堂左側から奥に進むと、墓地があり、向かい側の整備された公園に、十九首塚があります。



昔は19基あったものが時代と共に減ってゆき、将門のものと思われる大きな1基だけが残されたといわれています。その後、将門の首塚を取り囲むようにして18基の首塚が新しく作り直されました。地元では首塚を町の守り神として、彼岸と命日にあたる8月15日に供養祭が行われています。(掛川市観光情報サイトより)

旧十九首塚


この十九首塚がある十九首町は、地元の人からは「じゅうくしょ」と呼ばれるそうで、町の名前になっています。現在の東光寺南側の下俣川という小川で首を洗ったといわれ、血洗川と呼ばれました。そして川に架かる橋に首をかけて首実験を行ったことから、「懸川」→「掛川」という地名になったとする説があります。



十九首塚の由来

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の5代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平5(935)年、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興味され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3(940)年2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首待ち)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。 平成14年3月

将門公とともに供養されている武将




相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高

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コメント (4)
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