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三河・茶臼山城 吉良東条城の詰城か?見張台か?藤浪畷の戦いとの関連は?

2020-06-21 | 歴史

茶臼山城は愛知県西尾市吉良町宮迫にあります。 宮迫はミヤバと読みます。
 茶臼山城は吉良氏の居城である東条城の詰の城として築かれたとされていますが、東海古城研究会の機関紙「城」第225号2017 掲載の山崎裕太さんの茶臼山城に関する論文で、精緻な縄張図とともに詰城ではなくてのろし台・監視の役割を持った城という説が述べられています。今回はこれを資料として茶臼山城を見学しました。
 なお、茶臼山城の所在する山は西茶臼山で、北東600mに茶臼山があります。


茶臼山城 茶臼山城への道はBが麓の宮迫集落からの古い道と思われる
 現在の国土地理院地図に載っている山道はAとBですが、古い地図ではB1を通る道だけが載っています。今回の見学ではAの道を登り、Bの道を下りました。茶臼山、西茶臼山はハイキングの人気スポットのようで、A、B以外にも縦横にハイク道が有り山城見学では珍しく何組ものハイカーに出逢いました。
※B-1からの道は採土石場で失われつつ有り、B-2からの道が安全です


茶臼山城 Ⅰ郭は後世の宗教施設で周囲の改変があるとされ、のろし台は資料には無い
 道は①の部分に出ました。①及び②には虎口状の石垣と石段がありますが、これは後世の宗教施設に関連するものとされます。Ⅰ郭を取巻くようにⅡ、Ⅲ、Ⅳの曲輪が見られました。
 Ⅴ郭は西側に土塁を備え、一段下がったⅢ郭との間に堀切と土塁が築かれていました。茶臼山城の評価を難しくしているのはⅠ郭とⅤ郭の関係性が分かりにくい上にⅤ郭の東側に城郭遺構が認められない点にあるようです。
 Ⅰ郭は往時は土塁囲いの曲輪で四周に土塁が有ったように見えましたが、現状北側は不明瞭でした。④は①郭の虎口のように見えますがハイク道で改変されているようでした。
 

茶臼山城 ①の石段 手前にⅣ郭 
 ①の石段は後世の宗教施設関連とされますのでⅣ郭からⅡ郭へ登るのは③の通路だったかもしれません。あるいは①に通路が有ったが、石段はなかったとも考えられますね。


茶臼山城 ②の石段 通路両側には石積がある
 ②の石段や石積は宗教施設関連とされますが、通路は奥のⅠ郭側で写真左に曲がっていて、いわゆる枡形状になっていますが積極的に虎口の評価がされていないようです。もともと有った虎口に後から石を積んだとも考えられますがどうでしょう。


茶臼山城 Ⅳ郭からⅢ郭へ登る通路③  左に折れてⅢ郭へ入る。方形の平坦面の痕跡が見える
 概略図の③はⅣ郭からⅢ郭へ登る通路です。石段①の通路が後世のものとすれば、この通路が桝形虎口だった可能性があるのではないかと想像しました。


茶臼山城 Ⅴ郭西下の堀切と土塁 奥に土橋が見える。 右上にⅤ郭の土塁 南から
 茶臼山城の評価が分かれるのはⅠ郭よりもⅤ郭ほうが高所にあり、その堀切と土塁の組合せが西に向いていて、Ⅴ郭が未完成に見えることから来ているようです。Ⅰ郭が主郭だとすると、一段高いⅤ郭の存在が分かりにくいですね。


茶臼山城 のろし台付近の竪堀ア
 以前、茶臼山城を訪れたときに東尾根の先端部に「のろし台」の手作り看板が有ったので今回も行ってみました。のろし台というのは根拠がなかったのでしょうか?今回はのろし台の看板が見当たりませんでした。付近を探してみると写真のように尾根の北側にはっきりと竪堀地形が有りましたが、のろし台に関連するものかどうかは明確では有りませんでした。西茶臼山周辺には、戦時中に高射砲陣地が築かれ、陣地後や防空壕跡が多数残されているそうですので、城郭関連ではないかもしれません。


茶臼山城 東尾根の展望 Ⅴ郭付近からの展望は素晴らしい! 三河湾から津平、宮迫、幸田境まで一望
 Ⅴ郭に近い東尾根の南側が切り開かれて見事な展望が開けていました。足下の宮迫集落、右手奥には三河湾、左手には幸田町の境目まで見渡せました。茶臼山城のⅠ郭、Ⅴ郭とのろし台付近は樹木に覆われて展望がききませんでした。


茶臼山城 Ⅰ郭からの眺望 カシミール3Dのプラグインソフト「カシバード」にて
 茶臼山城の西側、北側は樹木に覆われているため眺望が聞きませんでしたので、帰宅してから愛用しているカシミール3Dに付属しているプラグインソフト「カシバード」でどのように見えていたのか確認してみました。
 これで見ると、東条城が見えますので、少し離れた詰城説もうなずけます。と同時に松平元康(徳川家康)が東条城を攻めたときの関連地名が一望できることもわかりました。
 藤浪畷古戦場は東条城攻めで活躍した室城城主で東条吉良氏の重臣・富永忠元(伴五郎)が討死の場所。伴五郎の居城・室城、東条城攻めで元安が築いた糟塚砦、小牧砦も見えることがわかりました。
 東条城攻めは伴五郎の活躍により、松平勢は何度も押し返され、何ヶ月もかかって伴五郎を討ち取って東条吉良氏が降伏したと伝わりますので、想像をたくましくすれば、茶臼山城はその間に元康の東条城攻めの陣が敷かれた場所だったと想定できないかと考えましたがどうでしょう。

「茶臼山城の遺構は後世の宗教施設で改変を受けた」という前提で見てきましたが、ひょっとすると宗教施設を利用して城郭を築いたということは考えられないものかとも想像しましたがどうでしょうか。
 現段階では宗教施設の存在していた年代について確認していませんのであくまで想像の域を出ません。

今回は山崎裕太さんの論文をきっかけに茶臼山城を訪れ、いろいろな想像をふくらませる事ができて楽しい見学となりました。