月のたび

日々の日記

「何がしたいの・・・?」って聞かれて、本当に何がしたいのか、よくわからない自分

2016-12-25 22:02:26 | しみじみ(滋)

この前、チャットをしたとき、女子から言われた言葉が、ちょっと忘れられなかった。

女の子「何がしたいの?」

そのとき私、チャット中なのに、瞬時に、深刻に悩んだ。『本当、何がしたいんだろう?』

全体的には楽しい時間が過ごせた。けれど、それ以後、その女の子の言葉が頭を離れなくなってしまった。

チャットする前は、自分でああだ、こうだと妄想たくましく、自信さえあった。けれど、いざやってみると、急に弱気になる自分。

なんでだろう?思うに、私は『何を考えてるか、よくわからない人』であって、そういう煮え切らない、中途半端の生き方の人ってことになりそうである。

どうしてこんなことになるんだろう?

私は本当はどんなことをしたいのか?自分が何をしたいのか?何を好きで、どんなことを楽しいとおもうのか、わからないのだ。

ただ、成り行きで行き当たりばったりの人生。

だから、何をするにも、情熱がない。だから、中途半端。

そういうことを乗り越えるために、毎日日記にその日の良かったことを3つ書いて、詳しく説明してみている。けれど、マンネリ化するものだ。天気がよかったこと。景色がきれいだったこと。その程度。

これではダメだ。

おそらく、自分は、楽しいことを発見する能力が足りないのだと思う。つまり、視野が狭すぎて、面白いことを見逃している。

誰かが言ってた。楽しいことを見つけ出すトレーニング法みたいのがあると。思うに、深呼吸して、心を落ち着ければ、なんとなく発見できるものがある。

そういえば、そのチャットがあって、沈んだ気持ちで思い出したのは、クリスマスが近づいたため、鶏のもも肉がお皿の上に乗せられてるのを見たときね、正直、私に食べられるそのお肉が、勿体無く思えた。クリスマスに無縁の私のために殺された鳥がこうして料理になっていることが。命にたいする感謝がなくなっている。感謝しなくても、何も問題なくなっていることは怖いと思う。

冬になれば、インフルエンザが流行する。それで高齢者がなくなる。それは鶏だって同じことだ。人間と同じ摂理で生きている生き物だから。

それを、鶏相手なら単にインフルエンザにかかったという理由だけで、無残に皆殺しにすることは本当に正しいのか?もしかしたら、正しいのは、自然の摂理のほうかもしれないのに。今の日本のように、何もかも恵まれてて、電通の過労自殺とか、保育園落ちた人とか、長岡市の火事とか、その程度のことで大騒ぎしてるほうが間違いではないのか。何か大きい間違いをしている気がする。

とても勿体ないことしている感覚だけはちょっと感じる。『ビルマの竪琴』のストーリーみたいに、もともとの日本人らしさが私の中で、呼びかけている感じが聞こえるような、気のせいのような。