今日いいことがあった。
今日はどぶ浚いと除草の仕事で、お客さんの一人が私の仕事の出来について「ふざけんじゃねえ」的なことを陰で言っているのを耳にした。そのお客さんは近所の評判は良くないという。そして、私が面と向かって対応した時には、別に悪いような人ではない印象の方だった。
けれど、その陰口が聞こえてくると、こっちもびっくりするよね。だって、予算と時間の関係、側溝がかなり汚れているということがあり、それなりの仕事で、なおかつ私にとっても、お客さん達にとっても両者が得をするような施工をこっちは心がけているわけです。
けれど、10軒のお宅の共用の側溝の掃除のため、一軒当たり3,000円の出費であり、こちらはもう、明日を含めると2日半もかけているのに、そんな風に悪しざまに言われてもね…。
けど、落ち着いて考えてみると、誰であれ、お金を払う以上は、少なくとも自宅に面する側溝は『よくきれいに掃除してもらいたい』と思うのは当然である。
なのに、私はその区域の側溝を全体としてきれいにするとしか考えていなかった。
『各家3,000円の負担は平等なのだから、平等にきれいにしないと不公平だ!』とお客さんが考えるのも当然だろう。そのあたりをお客さんの立場やものの見方を踏まえれば、『こういうこと注意しなくちゃね』と思えれば、次につながる。
こんな風にあけすけにブログに書いてるうちに、だんだん気にならなくなってきた。
「この世は全て修行である」という説が正しいならば、今日のその出来事は次につながるきっかけなんだろう。次に来るべき、私を待ち受けている何か、は何であれ、今を私がどのように受け入れるかで、未来は変わる、と信じている。
このような時に私は上祐史浩さんを思う。かつて、テレビに出て必死にオウムの弁解をしていた、という過去を、上祐さんは心底、悔やみ、恥じ入り、出来ることなら死んで詫びたいほどの消したい過去であると思う。そして今なお公然と「死んだ方がいい」くらいの罵倒のされ方をする。にもかかわらず、どうして彼は、あんなに立派に泰然と自分の主張ができるのか?そういう彼の逞しい根性、当然な自責の念を抱いてるはずなのに、静かで打たれ強い精神、を出来ることなら見習いたいものだ。そんな風に思いながら、彼の動画を見ていると、流れるように饒舌を楽しむように、心地よさげに人の生き方を説く上祐さんを見ていると、共感できるし、幸せな生き方ってのがわかるような気がして。
だって、「この世は全て修行である」ならば、今の私みたいに、辛い思いをしなくちゃならないものでしょ。ラクしてハッピーなことが向こうから自然に私のところへ寄ってくるわけないだろうよ!あるわけないよ!そんな自分だけに都合のよいこと!というのは正しいに決まってる。こういう意味で私は、村上春樹の小説は大嫌いです。好きな人もいるので考え方の違いにすぎませんが。逆に、「どこまで行っても恵まれないことのリアリズム」の末に見いだされる何かを掬い取れるような山本周五郎や下村湖人、山本有三みたいな作家には言葉では伝えられない輝きがあります。そういうものは今では流行らないでしょうけど。
でも、まだ私には明日がある!明日一日でしっかり掃除やれば、周りは評価してくれるかも。それに、30,000円の予算で2.5日かけるくらいなら、来年またその仕事の依頼があったとしても、断るだけのちゃんとした理由になる、と思う。だから、明日は一生懸命やらなくちゃならない。そうしてはじめて、自分の中で納得できる。てことは、来年またその仕事を依頼された時に、『請けるのか、断るのか』の判断を私が主体的にすることができる!これは大きいよ!だって、自分の中で「やり尽くした!」という実感を得られるならば、その後どんなことになろうと、後悔は無い。後悔のない人生こそ私の求める生き方で、そのためには、たとえゆっくりであれ、後悔せぬ仕事の仕方と生き方を少しずつでも積み重ねていくことだから。それこそ、「心の平和」ってものだろう。
このゴールデンウィークの後に私の友人のお父上にお会いしたいと思っていて、その友人は大学時代の親友で病気になって自殺してしまって、その友と以前、こんな春の晩に「心の平和ってどうしたらえられるのか」ってことについて夜半語らった思い出があって、その頃から私は精神的に何にも変わってない。けれど、今、心の平和への道のりは見えている。それは、いくら頭を働かせて考えても見つからなかった。自分が仕事をして、働いて、それに夢中になっているうちに見つかるはずのもの。それをその友に伝えたいと、仕事の都合で今まで長らくご無沙汰になってしまった遠方のお父上に、初対面で何話そうかなとか時折悩みながら、こんな仕事をしているんです。
今日はどぶ浚いと除草の仕事で、お客さんの一人が私の仕事の出来について「ふざけんじゃねえ」的なことを陰で言っているのを耳にした。そのお客さんは近所の評判は良くないという。そして、私が面と向かって対応した時には、別に悪いような人ではない印象の方だった。
けれど、その陰口が聞こえてくると、こっちもびっくりするよね。だって、予算と時間の関係、側溝がかなり汚れているということがあり、それなりの仕事で、なおかつ私にとっても、お客さん達にとっても両者が得をするような施工をこっちは心がけているわけです。
けれど、10軒のお宅の共用の側溝の掃除のため、一軒当たり3,000円の出費であり、こちらはもう、明日を含めると2日半もかけているのに、そんな風に悪しざまに言われてもね…。
けど、落ち着いて考えてみると、誰であれ、お金を払う以上は、少なくとも自宅に面する側溝は『よくきれいに掃除してもらいたい』と思うのは当然である。
なのに、私はその区域の側溝を全体としてきれいにするとしか考えていなかった。
『各家3,000円の負担は平等なのだから、平等にきれいにしないと不公平だ!』とお客さんが考えるのも当然だろう。そのあたりをお客さんの立場やものの見方を踏まえれば、『こういうこと注意しなくちゃね』と思えれば、次につながる。
こんな風にあけすけにブログに書いてるうちに、だんだん気にならなくなってきた。
「この世は全て修行である」という説が正しいならば、今日のその出来事は次につながるきっかけなんだろう。次に来るべき、私を待ち受けている何か、は何であれ、今を私がどのように受け入れるかで、未来は変わる、と信じている。
このような時に私は上祐史浩さんを思う。かつて、テレビに出て必死にオウムの弁解をしていた、という過去を、上祐さんは心底、悔やみ、恥じ入り、出来ることなら死んで詫びたいほどの消したい過去であると思う。そして今なお公然と「死んだ方がいい」くらいの罵倒のされ方をする。にもかかわらず、どうして彼は、あんなに立派に泰然と自分の主張ができるのか?そういう彼の逞しい根性、当然な自責の念を抱いてるはずなのに、静かで打たれ強い精神、を出来ることなら見習いたいものだ。そんな風に思いながら、彼の動画を見ていると、流れるように饒舌を楽しむように、心地よさげに人の生き方を説く上祐さんを見ていると、共感できるし、幸せな生き方ってのがわかるような気がして。
だって、「この世は全て修行である」ならば、今の私みたいに、辛い思いをしなくちゃならないものでしょ。ラクしてハッピーなことが向こうから自然に私のところへ寄ってくるわけないだろうよ!あるわけないよ!そんな自分だけに都合のよいこと!というのは正しいに決まってる。こういう意味で私は、村上春樹の小説は大嫌いです。好きな人もいるので考え方の違いにすぎませんが。逆に、「どこまで行っても恵まれないことのリアリズム」の末に見いだされる何かを掬い取れるような山本周五郎や下村湖人、山本有三みたいな作家には言葉では伝えられない輝きがあります。そういうものは今では流行らないでしょうけど。
でも、まだ私には明日がある!明日一日でしっかり掃除やれば、周りは評価してくれるかも。それに、30,000円の予算で2.5日かけるくらいなら、来年またその仕事の依頼があったとしても、断るだけのちゃんとした理由になる、と思う。だから、明日は一生懸命やらなくちゃならない。そうしてはじめて、自分の中で納得できる。てことは、来年またその仕事を依頼された時に、『請けるのか、断るのか』の判断を私が主体的にすることができる!これは大きいよ!だって、自分の中で「やり尽くした!」という実感を得られるならば、その後どんなことになろうと、後悔は無い。後悔のない人生こそ私の求める生き方で、そのためには、たとえゆっくりであれ、後悔せぬ仕事の仕方と生き方を少しずつでも積み重ねていくことだから。それこそ、「心の平和」ってものだろう。
このゴールデンウィークの後に私の友人のお父上にお会いしたいと思っていて、その友人は大学時代の親友で病気になって自殺してしまって、その友と以前、こんな春の晩に「心の平和ってどうしたらえられるのか」ってことについて夜半語らった思い出があって、その頃から私は精神的に何にも変わってない。けれど、今、心の平和への道のりは見えている。それは、いくら頭を働かせて考えても見つからなかった。自分が仕事をして、働いて、それに夢中になっているうちに見つかるはずのもの。それをその友に伝えたいと、仕事の都合で今まで長らくご無沙汰になってしまった遠方のお父上に、初対面で何話そうかなとか時折悩みながら、こんな仕事をしているんです。