月のたび

日々の日記

生きてて楽しくない時代

2007-08-11 10:18:38 | 裏路地(暗)

家族や親戚の大切さがわからない。

 毎日空疎に日を送るだけでいいのか。いいとは思わないのに、どうしようもなく時間だけが過ぎ、二度と来ない日々を浪費している。

毎日顔合わせても、特別な感情を抱くことなく、特別な日にも特別なことはなく、お盆といっても単に儀礼的に会うにすぎない。

心がない。誰もが感じるはずの懐かしさ、みたいなものがない。

つまらない、のにどうしようもない。

 空回りのライフサイクル。唯物社会の奴隷、商業主義の奴隷。

これが戦後の終着点か。


面接失敗の理由 わたしの道はイバラの道

2007-08-08 11:51:38 | 裏路地(暗)
やっぱり普段から人と話さないのが大きいな。

対話不可能。

会社にただいるだけの人でも対話はする。それが対話の訓練になっている。ところが私は対話をできない。すなおに見るとこれが私の問題だ。

だから、カベに向かってでもいいから、話す練習しなくては。

死ぬほど苦しい修行だから尊い修行。

クラッシュ・アウト

2007-08-07 16:27:47 | 裏路地(暗)

果てしない世界が私の目の前に広がる。果てしなく続く世界・・・。

人が苦痛を感じるとき、からだが正常な状態にいないということを、苦痛が僕たちに知らせてくれる。(君たちはどう生きるか

ダメだ。失敗した。

面接失敗、親大反対。

その苦悩に先程まで苦しみがつづいた。そして妹に相談したら、自分が悩みすぎの兄であると気づき、苦悩は今、和らぎつつある。 苦悩のなかにも文学を見出して陶酔する自分がいます。

妹ありがとう。


防御のための発言

2007-08-01 19:48:45 | 裏路地(暗)

無口な私にとって、発言しないことによるデメリットってのがあるんです。

発言しないってのは、やっぱりよくないことだな、と身にしみてきている。だからこれから自分でどうするかってことになりますね。人との対話は人間関係の上で、どうしても必要なことと思われる。対話しないことによる無理が、いろいろなところに出てきて私を蝕みます。

 たとえば、ずっと黙っているのが「この人にとっての普通」ってことになると、人の中には、私が黙っていることをいいことにいろんなことをしつこく私の耳元で吹きこもうとする。私は親切のつもりが半分と、もう半分は自分の立場を主張したくないって不作為による怠慢が半分で黙っている。私はズルいんです。それをなくすためには、元気を奮い起こして、つまらない会話にも口を挟むようにしなくちゃならんのだ。とにかく今のままじゃあ駄目だ。もっとずぶとく生きなくちゃあテリトリーを侵されるんです。


完全主義とコミュニケーション

2007-07-18 12:32:41 | 裏路地(暗)

今朝、散歩から帰ってきたときに、台所に明かりがついており、父が早起きして食器を並べるようなことをしている。そのとき何となく、私はイヤな気がして挨拶しなかった。その理由は私の挨拶に対する父の声音のうちに、何か傲慢な感じがしそうなのでした。具体的にいうと、何か、頭ごなしに見下すってわけじゃないけど、その親切めいた態度のうちに、秘めた、何か、私が思う以前の前提からひっくり返してしまいそうなくらいの、すれ違い、決定的なズレ。まるで、よくわからない。一言で言うと、「相手に対する敬意」ってのを欠いている、みたいなんです。

 そしてそれは私にも言える。妹と話していても、どれだけ話しても、私の内の何かが、イマイチ邪魔している。だから私もどこかが間違っているわけです。何かすごく傲慢である。それをたとえば、時々妹が私をなじるような一言のうちに気づかされる。そうしてそれを私も意識し、するとそれ以上話せなくなってしまい、固まってしまう。そして固まるってことは、その問題が解決することじゃなくて、なかったことにするに過ぎない。ってのは自分でその問題をどうしたらいいの分からないから。自省できないってのは自省心が足りないからです。

で、思い返してみると、メンツを守りすぎるって事ある。メンツを守るってのは自分の中で高い目標を持つってことだからね。でも、高い目標ばかりにこだわり過ぎて、それが空洞化して、格好だけは気にするようになって、結局、形だけにこだわりを見せるさもしい奴になっちゃったってのがメンツ。

中谷彰宏さんが言ってたけど、「相手に飛び込んでいく」ってことを私はしない。ソクラテスの言だったか、詳しく覚えてないが「対話は裸でするものであって、裸になって対話をしないからズルい」みたいな事を言ったらしい。(いきおい裸になっても相手がドン引きってケースもある)でもやっぱこのアタリです。では私はどうすべきか。

ここで問題になっているのは何か。

会話をしても相手は、まるで私に支配されているような、支配を受けているような、予定調和的な気分になって萎える。つまり、結局いくら話しをしても、それは私の立場を、私にとって都合のいい形で認めさせるに過ぎない形になってしまう。形式だけになってしまう。つまり、話の内容はどうであれ、こういう形だけは同じだからしこりを感じる。だから妹は私の前では少し居心地が悪いはずであって、疲れるのだろう。

それで原因なのは結局メンツだと思われる。メンツってのは、相手に話していい事と話すべきでない事を区別することから始まる、のではないか。そして私には家族の内にも話すべきでない事が多すぎる。だから、思わず吹き出したくなるって事が皆無なんです。私の場合、会話をパーフェクトにコントロールしていますから、スキがない。スキがないのはそもそも虚構です。不自然です。だから結局会話を萎えさせる。つまり人間的じゃない。人間的ってのは思わず笑っちゃうような変てこなところでも、毎日顔を見合わせている相手の中にも発見することがある。それが人間的だって事です。それが自然なんです。

それで、話がそれるけど、じゃあここで、人間的ってのはパーフェクトにコントロールしないことかって言うと、そういうことが他の全てに当てはまるわけではない。

「人間だもの みつを」の世界になっちゃいます。この理屈を通せば何でも許されてしまいます。いつもいつも性格温厚ってのは嘘っぽい、転んだり、失敗したり、変だったり、哀れだったり、その人の意志を越えて現れてしまうその人らしさってのを共有しちゃうから人間らしい関係だけど、社会のコアな部分ではそれが許されません。核兵器の管理だとか。だからわたしの会話が社会的なものになりやすいってのも、それに耐性ある人間性を演出してるだけちゃなく、そっちに逃げて、パーフェクトなコントロール属性を維持するための理屈を推し進めるだけの理由付けになるからです。

植草ミラーマン教授のように女性をワンワンポーズにさせ、そこにローソクをポタポタさすようなDVDをたくさん集め持ってても、それが本当に社会に必要な有能な評論家ならば立派に通用していく。ただ、社会的に立派な地位になるほど、現代の日本では政治的な力が加わってきますから、いわれのないバッシングを受ける。還元水で自殺に追い込まされたり、ミートホープだのコムスンだの産む機械だのっていう言いがかりを作って1ヶ月に一度くらいのペースでメディア総動員のバッシング・キャンペーンをする。「驚くべき真相」とか「波紋が広がっている」ということになって、いけにえにされる。

こういう社会は生きにくい。本音とタテマエが都合よくブレンドしていれば人間関係でも社会生活でも調和が取れるものを、一方では完全主義が要求されるけど、他方ではほどほどに自分の身を世間の垢で汚さなくちゃならん。 このバランスです。