暇そうに見えるわたしの日常。
「毎日何しているの?」と聞かれる。でも、お婆さんでも結構忙しい。名前のない家事ってTVで言ってたけど、名付けようなない些事で振り回されている、それが毎日。
シジフォスの罪と同じかもしれない。
思いがけず表彰状(精勤賞)を頂いた。
横須賀市の保健所の計らいである。高齢化社会、医療費の負担を嘆くより健康寿命を延ばした方が良策である。
少しでも健康で長生きをしてください、それには「是非ラジオ体操を」という推奨プランの一環としての賞状の配布。幾重にも賞状を重ね、(あの世へと)一歩一歩健全に自分の足で歩いていきたいものです。
『オーステルリッツの喧嘩』
ミニチュアの窓、木とガラスに油彩とある。小さな窓(仕切り)からは内からも外からも様子が伺える。窓ガラスは透明であるけれど無いようにも見えるが、あえて(あります!)と軽く印が付けられている。確かに在るのだと。
これが「オーステルリッツの喧嘩」だという。ナポレオンが大勝利をおさめた「オーステルリッツの戦い」もミニチュア(縮小)にすれば、「オーステルリッツの喧嘩」ということかも知れない。歴史に記される数行(一行)は、単にそれだけの記述(記録)に終わる。
大勢の死者を出した戦いの果て…虚しさだけが残る戦争、空に帰していった多数の犠牲者への鎮魂。逝った者の帰る術はないが、この透明な通り抜け可能な窓ガラスから帰るやもしれない。
デュシャンの哀悼の意であり、墓標である。帰るべき魂への鎮魂である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「いえいえ、だめです。なんといつたつて、頭のとがつてゐるのがいちばんえらいのです。」
「いゝえ、ちがひます。まるいのがえらいのです。」
「さうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山猫が叫びました。
☆等(平等)が題(テーマ)である。
太陽の平(平等)は教(神仏のおしえ)である。
しかし、気だてのやさしい子ですから、あなたがひどい目に会ってはいないだろうか、もしやバルナバスの家へ行っているのではなかろうか、などといまでもときどき気にしているのです。
☆不都合が生じていないか、ひょっとしたらバルナバス(北極星/死の入口の近くを回っている)のところへ行っているのではないか、不当な目に会わされているのではないかなどと今なお常に疑念を抱いているのです。