『自転車の車輪』
白い丸椅子の上に取り付けられた黒い自転車の車輪、美しい造形である。ただ結論から言えばきわめて無意味な無用の長物と化した接続物に過ぎない。
人が座るべき丸椅子に人でない物体(自転車として機能すべきものの一部だけを取り出した車輪)を乗せた景は、前向きなエネルギーを失っている。
ちぐはぐで滑稽な合体は、有用という領域から遠く存在価値を剥奪された物として疎外を免れない代物と化している。
この虚無感、存在しているが存在意義を剥奪された悲嘆。
物は物として在るだけだが、そこには必ず人智の作用が関係し、有用な機能を求められる。少なくともその目的をもって制作されたものを、強いて機能のない状態に放ち、それを作品(主張)であると鑑賞者の目に提示している。
車輪は回転するが、エネルギーは単に放出されるばかりの虚しい軋みを発するだけである。
しかし、この神妙なバカバカしさ無為の木霊のような寂寞には、妙に震撼とさせる闇のエネルギーがある。デュシャンは限りなく《ゼロ》を目指しているが、不思議にマイナスのエネルギー(風)を感じるのである。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
馬車別当が、こんどは鈴をがらんがらんがらんがらんと振りました。
馬車別当はマ・シャ・ベツ・トウと読んで、魔、赦、蔑、闘。
鈴はレイと読んで、霊。
振りましたはシンと読んで、審。
☆魔の赦(罪を許し)蔑(見下すこと)と闘い、霊(死者の魂)が審(正しいかどうかを明らかにする)。
それにしても、きみは、ぼくのところへ来たときからすぐに、どうしていまのように素直に話をしてくれなかったのかね」
「あのときはお勤めの身だったからですよ。わかりきった話じゃありませんか」
☆それにしても、どうしてわたしのところへ来たとき、すぐに心を開いてくれなかったのか」
「あのときはお勤め(死んでいた)からですよ、自明のことじゃありませんか」