探し物をしている、ほぼ一日中。
あの物は一体どこへ行ったんだろう。どこかに隠れているには違いないが、どうしても思い出せない。
「おや、こんなところにこんな物が・・・」久しく会っていない友人に出会えたような感慨。
でも、わたしの探しているものとは違う。
かくして一日中探し物に明け暮れている。
『白紙委任状』
馬に乗って林の中を進む女性は、木によって隠される部分と現れる部分がある。しかしその部分を空間理念に基づきつなげてみることが出来ない。
なぜなら、一見つながるように見えている画像ではあるが、空間の原理を外した偽空間だからである。
空間というものは物の存在によって認識され、物の配置の遠近は動かし難く脳裏に刻まれる。後ろの木が手前にあるように見えることなどあり得ないが、絶対的な物理状況も、感覚的な精神の解放により自由になりうる。
ただその自由に、反感(疑惑)を抱くことが見ることの自由を不自由にさせていると言えるかもしれない。
しかし、その自由への信奉は危険を伴い、日常を不安に陥れる。物理法則に従い疑惑を抱かないことが正常な見識であることは言うまでもない。
だからこそ、見ることの自由に対し『白紙委任状』の確約を提案せざるを得ないのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「いや、こんにちは、きのふははがきをありがたう。」
山猫はひげをぴんとひつぱつて、腹をつき出して言ひました。
☆太陽の平(平等)は、福(さいわい)を推(前へ押し出し)現れる。
「で、おまえは?」
「わたしは、ここに残れたんです。アルトゥルは、わたしの分も訴えてくれていますのでね」
「いったい、どんな苦情があるのかね」
☆「でも、わたしはここに、留まったんです。アルトゥルはわたしの悲嘆も持って行ってくれました。」
「なんで悲嘆にくれているのかね」